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群馬と満蒙開拓【前編】

 中国東北部に日本がつくった「満州国」に渡った開拓移民。日本の敗戦後に殺されたり、故郷へ帰れなくなったりした人もいた。満州で何があったのか。戦後をどう生きたのか。悲劇の体験者は少なくなった。家族の歩みをたどりながら、戦後75年を考える。

①前橋→旧満州→長野原 藤川ちゃう子さん(88)

 浅間山を望む群馬県長野原町北軽井沢に「ハイロン」と呼ばれる地区がある。レタスやキャベツ、トウモロコシなどの畑作、そして酪農が盛んな地域だ。風変わりな地区名の由来を知る人は少ない。はるか遠く、中国黒竜江省の「海倫(ハイロン)」にちなむことを。

 さかのぼること約80年前。今の中国東北部に日本が主導して建国した「満州国」の大都市ハルビンの北約200キロの浜江省海倫県(当時)には「群馬村」があった。群馬からの移民が築いた村だった。満州と群馬。結びつけたのは開拓農民と戦争だった。

拡大する写真・図版藤川ちゃう子さんの右腕には75年前に撃たれた散弾の痕が残る=群馬県長野原町応桑、柳沼広幸撮影

 長野原町応桑に住む開拓農家の藤川(旧姓石井)ちゃう子さん(88)は1939(昭和14)年4月、木瀬村(現前橋市)から父の石井実治さんと母、姉弟4人の家族6人で満州に渡った。小学2年生だった。

 開拓団本部で共同生活を送り、入植の300戸は「赤城郷」「榛名郷」「妙義郷」と名付けた開拓地に分かれ、村づくりに励んだ。石井家は赤城郷の旭区。子どもたちは本部の寄宿舎に入り、日本人の国民学校で学んだ。土曜日に本部勤めの父に馬に乗せてもらい、自宅に帰るのが楽しみだった。

 日本人の集落は鉄条網と土壁で囲われ、各家庭に銃があった。「匪賊(ひぞく)」と呼ばれた武装集団からの襲撃に備えていた。近くに満州人の集落や商店があり、遊びにも行ったが、「1人で行ってはいけない」ときつく言われていた。

拡大する写真・図版満州に渡った1939年4月、海倫への途中でハルビンの知人(奥左)と撮影した石井家の家族写真。前列左から2人目がちゃう子さん=藤川ちゃう子さん提供

 45年8月15日の敗戦。ソ連軍にすべての武器を取り上げられた開拓団に千人を超える武装集団が襲いかかります。

 見渡す限りの平原。地平線まで…

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