第1回本能寺の変、否定された「怨恨説」 黒幕捜しが始まった

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迫る!本能寺の変㊤

 NHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」を機に主人公・明智光秀が改めて注目されている。本能寺の変の原因をめぐる諸説について、信長の業績や生き方を20年以上研究する滋賀県安土城考古博物館学芸員の高木叙子(のぶこ)さんに寄稿してもらった。3回にわたり掲載します。

 1582(天正10)年6月2日未明。天下統一を目前にした織田信長は、京都・本能寺で家臣の明智光秀に襲われ、命を落とした。

 日本史上最大級のクーデター劇「本能寺の変」だ。また「日本史上最大の未解決事件」とも言われる。

 ただ、これには異議を唱えたい。被害者は信長、主犯は光秀、現場は本能寺、日時は前述のとおり。刑事事件なら不明な点は見られない。光秀は、11日後の山崎の戦いの敗走中に討たれ、「被疑者死亡のまま送検」で解決済みなのだ。

 唯一わからないのは「動機」。動機は本来、裁判で罪の軽重を決める際に考慮されるものとして重要ではある。だが、人々の興味はその「謎解き」にあるようだ。

 光秀の背後にいたかもしれない黒幕や、謀反を起こさざるを得なかった光秀の置かれた立場など、様々に推理・想像が膨らみ、多種多様な説が出されてきた。

 意外かも知れないが、そもそも本能寺の変は長い間、歴史研究の対象とされてこなかった。事件発生からつい最近まで、光秀の動機は怨恨(えんこん)もしくは野望で済まされてきたからだ。

 信長と光秀の個人的な感情が原因である以上、歴史学として追究する必要はない。論証もできないと判断されていたのである。

 この状況を変える転機となったのが、1958(昭和33)年に刊行された高柳光寿氏(国学院大学教授)の「明智光秀」(吉川弘文館・人物叢書(そうしょ))だった。

 歴史学者が、確実な歴史的証…

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