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 広島市中心部から少し離れた住宅街に、4棟の大きな赤れんが倉庫がある。築107年、いま解体論が持ち上がる「旧陸軍被服支廠(ししょう)」。切明千枝子さんは幼い頃から90歳の今まで、その姿を近くで見つめてきた。勇ましさと、惨状と。「ここは、被爆建物の一つというだけではない」。全棟保存を訴える切明さんが、建物を通して見る戦後75年の日本の現在地とは。

きりあけ・ちえこ 1929年広島市生まれ。高等女学校4年の時に被爆。広島女子専門学校(現・県立広島大)卒業後の49年に広島県庁に就職。85歳で被爆体験の証言を始める。2019年からは平和記念資料館の館内でも証言活動をしている。

 ――切明さんにとって、旧陸軍被服支廠とはどんな場所ですか。

 「実家が正門近くにあって、毎朝、目の前の狭い道を工員さんたちが道いっぱいになって通勤しよる、ザクザクいう足音で目覚めました。母が会計係として働いておったので、私は構内の保育所に預けられました」

 「小学校2年のころに日中戦争が始まりましたけどね。年の離れた妹のお迎えに、小さい体で乳母車を押して行ったんですよ。ダッダッダッダッと動力ミシンの音が外まで響いて、新しい軍服が次から次へと縫われていました。構内に鉄道の線路が引き込まれていて、倉庫から荷物を貨車に積んでは港へ送っていく。今は赤レンガ4棟しか残っていませんが、あたり一面が被服支廠の構内。それはそれは広くて」

 「たくさんのウサギも飼われていたんです。大根やニンジンの葉っぱをやるのが楽しみで。あらゆる種類がいて、兵隊さんの外套(がいとう)の裏に付ける毛皮の保温力を調べとるんだと聞きました。大浴場もありました。倉庫の前の原っぱにスクリーンを置いて映写会をやったり、創立記念日には仮装行列をしたり。太平洋戦争が始まるころまでは、そんなこともありましたね。今思えば、陸軍はものすごいお金を持っていたんだなって。陸軍の底力のようなものが、醸し出されていましたね」

 ――太平洋戦争が激しくなったころ、女学生だった切明さんは、被服支廠に動員されました。幼いころの記憶とは違いましたか。

 「広島には被服支廠、兵器廠、糧秣(りょうまつ)支廠と三つの軍需工場がありました。県立広島第二高等女学校に進んだのですが、勉強したのは1年まで。学徒動員で、この陸軍三廠全てに行きました。被服支廠では、最初はミシンで軍服を縫っていました。戦争末期になると、軍服の古着の山を洗濯する仕事になりました。銃弾の跡でしょうか、穴が開いていて、反対側にべっとり血がついている」

 「血染めの軍服を洗濯板の上に載せ、固形せっけんとたわしをこすりつけて手洗いする。乾いたら破れた部分を繕う。そんな仕事を女学校の生徒たちがやっていました。新しい軍服を縫う材料がなかったんだと思います。『日本は大丈夫でしょうか』と先生に聞いたら、『言霊が生きて、本当に負けてしまう』って叱られて、口にチャックしました」

 「1944年には、たばこを作る広島地方専売局に動員されました。『たばこなんて戦争の役に立たん。被服支廠や海軍工廠がいい』と不平を言うと、先生が『たばこも立派な軍需品。これ以上働けないという時に一服したら元気になる。心をこめて作れ』って。ああそうか、とたばこの粉まみれになって働きました」

 ――そうして、45年8月6日…

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