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人気お笑いコンビ「NON STYLE」の石田明さんは、大阪市に生まれ小学校から野球を始めました。当時の思い出や球児へのエールを語ってくれました。

 小学3年生の時に野球を始めました。我が家は貧乏でボーイズリーグには入れず、学校の小さいチームに入れてもらいました。グラブっていえるか分からへんような、ぼっろぼろの革の硬いやつを河川敷から拾ってきて使ってた。

 中学でも野球がやりたくて仕方なかった。叔父が新品のグラブを買ってくれたんです。ずっと手にはめて感触を確かめたり、枕元に置いて寝たりしていました。

 高校は大阪府立東淀川高校。そんなに野球部員数が多くなかったから、レギュラーになれる可能性高いんじゃないかなって。冷静でしょ。

 ベースランニングは地獄でしたね。ノックを受けて、全員がノーエラーだったら終わりなんですが、1人でもエラーしたら、その瞬間全員でベーランを始める。で、終わった瞬間にノックに戻る。ベーランのことを「ノーエラー」って呼んでいたんですけど、「ノーエラーいくぞ!」って言われた瞬間震えてました。

 高校ではじめてベンチ入りしたのは3年最後の夏。「12」と書かれた背番号を受け取った時、もう感動ですよね。ベンチに入れるだけでもうれしかった。

 観客席で声が枯れるほど応援するって、まじでつらい。僕も1、2年生とずっと声出ししかしていなかったですから。でも声出しがあったから、今の仕事にも生きてきてるし。だから結局はつながってたんやなって。

 その背番号は、オカンがバイトの制服に縫い付けるというミスをしました。バイト先の居酒屋の制服、白くてユニホームと素材が似てたんですよ。だから開会式では背番号を油性ペンで書きました。「誰かに背中見られてたらいややな」ってビビり倒していましたね。そしてバイトでは背番号で呼ばれました。

 最後の試合になった2回戦。試合はあっちゅうまでした。前日の練習試合でうちのエースの島ちゃん、めちゃめちゃ調子よくて、みんなノリノリ。でも、いざ試合が始まり、島ちゃんが意気揚々と1球目を投げた瞬間、スパーンって打たれて「あれ?」って。こんなにも力の差があるんかって。

 最終回、2対15で2アウト走者なしの場面、代打で石田が呼ばれました。「俺に来た、よし!」って。緊張でばくばくの中、めっちゃ気合入れて監督のほう見たら、送りバントのサイン。「え?なんやろ」。タイムして走っていって確認すると、「おまえは送りバントで可能性がある」って。確かに僕は送りバントの成功率が高くて足も速かったから、セーフになることも多かったんです。でもそれは、ランナーがおっての話。

 「セーフティーバントやったら失敗する可能性があるから、ちゃんと送りバントで」と監督。三塁線に打ってせめてもの思いでヘッドスライディングしたけど、ゲームセット。「無」ですよね。相手チームもポカーン。

 試合後は球場外に集まり、監督がそれぞれのよいところや思い出話を言っていきました。感動的な雰囲気で、みんな泣いていました。

 ついに僕の番。「石井」って呼ばれて。「……あれ?これ俺やんな?」って。「はい」と返事したら、「昔部室で見かけた弁当、自分で作ってるって言ってたな。あれ美味しそうやったな」って。監督としゃべったのはそれぐらいしかなかったですね。

 野球部のメンバーとは今でも定期的に年に1、2回会います。高校野球の思い出はたくさんありますし、今でもずっと同じ話をします。結局は楽しい話しか残っていない。

 夏の大会の中止が決まった夜、自分の高校野球のことを書いてるブログを更新しました。いてもたってもいられなくて。可哀想すぎやろっていうのも違うし、ちょっとでも軽い気持ちにしてもらえたらなって。僕は今でもめちゃくちゃ良い思い出やし。

 始球式で甲子園球場に立たせてもらった時、別格の感動がありました。今年はもうそれはなくなるかもしれないけど、結局みんな野球が好きっていうのを今こそ実感できると思う。こんな状況だからこそ「野球したい」「勝負したい」という、野球への思いを再確認してもらい、仲間たちと一喜一憂して楽しんでもらったらいいなと思います。(聞き手・浅沼愛)

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 「のん すたいる」 いしだ・あきら 1980年生まれ。大阪市出身。小学校から野球を始め、中高は野球部。2000年、大阪府立東淀川高校の同級生だった井上裕介とコンビを結成。08年には、漫才日本一を決めるM―1グランプリで優勝した。