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 75年前の8月9日、長崎の医療は崩壊していた。

 「原子爆弾患者と云う未曾有の新疾患である。地元大学の研究室は潰滅している」

 その報告書「原子爆弾救護報告 昭和20年8月~10月」は、医師の目から見た原子野を描いている。筆者は被爆医師・永井隆、当時37歳。長崎医科大学(現・長崎大学医学部)物理的療法科の助教授だった。

拡大する写真・図版長崎医科大学第11医療隊による「原子爆弾救護報告」。バラバラにならないよう、長崎大が専門家に依頼し、劣化防止の処置を施した=長崎市坂本1丁目

 永井の部下、友清史郎(93)=長崎市小菅町=は当時18歳。がれきの中からいち早く脱出し、学長を助け出した描写が残る。放射線技師の見習いだった友清は「機械はすべて壊れてしまった」と振り返る。

拡大する写真・図版友清史郎さん=2020年6月16日午後5時4分、長崎市小菅町、榎本瑞希撮影

 永井は医療者としての悔恨をつづる。「私達は燃える機械を惜しみながらも傷つける同胞の命を尊み1人1人火の地下室からそれを救出したものであった。だがその結果は如何、切角救出した患者は殆ど全部死亡してしまったではないか」

 15日、終戦。「爆撃機は暇になった」。それを使って、患者を他県に空輸できていれば「どれだけ多数の患者が救われたであろう」。

原爆投下から75年。長崎で紡がれ、伝えられてきた資料をたどり、記録を後世に引き継ぐ責任を考えます。

 末尾には125人の患者名簿が記されている。10月の時点で死者は29人。「血液障害患者の新発生も稀となり、患者の症状も治癒又は軽快しているが、これで終わるものであろうか」。暗い予想はその後、現実のものとなる。    

マリア像の下に

 51年に亡くなるまで、「長崎…

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