拡大する写真・図版川畑さんの大隊がいた場所(ろ号陣地)

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川畑博信上等兵 ノモンハン従軍記1

 地平線まで続く行軍の写真がある。1939年、中国東北部(関東地方)に駐屯していた日本の関東軍が、ソ連の機械化部隊と衝突したノモンハン事件での一コマだ。写真には当時24歳だった上等兵、川畑博信が写っている。川畑が生前、記者に語った体験と残した手記から、死線をくぐった兵士の実体験を再現する。

プレミアムA「ノモンハン 大戦の起点と終止符」
日本が初めて近代戦に直面したとされるノモンハン事件。このシリーズは現地調査や最新の知見も交え、当時の日本が直面した戦争の諸相を浮き彫りにします。全3章です。

 兵たちは太陽に焼かれ、重荷にあえぎ、芋虫のように黙々と歩き続けた。小休止のラッパが鳴ると、その場で背囊(はいのう)を背にひっくり返り、出発まで1秒でも長く目を閉じていた。宮崎出身の初年兵は、文字通り伸びてしまった。砂の上に座り込み、蹴っ飛ばしてもたたいても立とうとしない。情けないやら腹が立つやら。俺はこいつの銃を持ったうえ、尻を蹴っ飛ばしつつ進まねばならなかった。

拡大する写真・図版ノモンハンへ徒歩で向かう日本兵ら。丸印で囲んだ銃を担いで手拭いをかぶっているのが川畑博信さん=1939年6月下旬、モンゴル国境付近のホロンバイル平原

 1939年6月22日、俺たちは兵営があったハイラルを出発して200キロ先のノモンハンへ向かっていた。行軍の写真は、このとき撮影された。俺が所属する歩兵第64連隊は主力のひとつだった。

 なんと言っても一番苦しんだのは水。早朝の出発時は草露がおりる。兵たちは乾パンを包むガーゼの袋を草にこすりつけ、水分を含んだ空袋をしゃぶった。集結地点まで丸6日間。苦しくて何も考える余裕などなかった。それでも時折は故郷を思った。しかし、日本はどの方向なのかすらも分からなかった。

敵が頭をもたげた瞬間

 俺にとってこれは2度目の最前線だった。最初の出動は1939年5月20日。37年8月に応召して38年7月に64連隊に配属され、ハイラルへ来て初めての実戦だった。前回の出動ではトラックで丸2日かけ、ノモンハンの手前まで運ばれた。1週間ほど待機して5月28日、再び南進した。

拡大する写真・図版ソ連軍の拠点近くに残っていた塹壕(ざんごう)を調べる調査団=2019年5月23日、モンゴル東部、水野義則撮影

 緩やかな丘を越えた途端、車の脇20~30メートルで、轟音(ごうおん)とともに土煙が上がった。

 敵の砲撃だった。2発、3発……。砲撃は何キロも先からだったが、初めてで震えが止まらなかった。荷台にいた皆がそうだった。

 トラックを降りて散開し、前進した。敵影どころか方角も分からない。伏せていると耳元で「ヒュン、ヒュン」と敵弾が風を切っていく。

 「小隊、前へ」

 号令で走った。丘の稜線(りょ…

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