[PR]

 終戦から75年。戦争を直接知る人が、記者の周囲からもどんどんいなくなっています。あのとき、いったい何があり、どんな思いだったのでしょう。90代となった皆さんからお話を聞きました。(新谷(しんや)千布美)

拡大する写真・図版特攻隊員として訓練を受けていた1944年頃の若林良太郎さん=本人提供

 「75年前に1度失ったような命や」

 19歳で徴兵され、特攻隊の訓練中に終戦を迎えた若林良太郎さん(95)=長浜市石田町。これまで地元の資料館などで若い世代に経験を語り続けてきた。

 1925年生まれ。貧しい小作農家の3人兄弟の長男だった。成績は良く、県立長浜商業学校(現・長浜北星高校)に進学した。

 太平洋戦争が始まった41年を境に、学校では軍事教練が繰り返された。3カ月繰り上げて卒業した42年12月、川崎市の軍需工場に動員された。

 仕事は鋼のパイプ作り。溶けた鉄を型に入れる作業で、汗が塩を噴いた。

 食事は雑炊とめざし程度。100人ほどいた英国人捕虜の分はより少なく、「Tasteless(まずい)」とぼやいてた。

 経済学を学ぶため43年末、大学の夜間部に入学。しかし、翌44年1月に徴兵された。学徒出陣だった。

 青森県八戸市で3カ月間の入隊訓練を受けた。上官に殴られ、奥歯が折れた。

 その後、立川飛行場(東京都)の航空隊へ。配属されたのが、特攻隊だった。訓練は厳しかったが、殴られなかった。上官は幹部を養成する士官学校卒の「鬼頭(きとう)隊長」。頭が良く、信念のある人だと感じた。

 45年3月10日未明。東の空が赤く染まった。東京大空襲。トラックで救助に向かうと隅田川に遺体がいくつもいくつも浮いていた。鬼頭隊長がこぼした。

 「若林。日本はもう、負けるんじゃないだろうか」

 4月には立川飛行場にも米軍機の機銃掃射の轟音(ごうおん)が響いた。防空壕(ごう)に逃げ込む瞬間、銃弾が左ひざに当たり血が噴き出した。低空飛行する黄色い戦闘機の中で米兵がにやにや笑っているのが見えた。兵舎は燃え、90人を超える死傷者が出た。

 5月、隊長が沖縄に出撃。二度と戻らなかった。

 「次は僕もつっこまなあかん」。覚悟を決め、木と布張りの練習機「赤とんぼ」での訓練も終えて出撃する直前、敗戦を迎えた。

拡大する写真・図版実家に送ったはがきを手にする若林良太郎さん。特攻隊の訓練を受けていたころに書いたという=2020年7月13日、滋賀県長浜市石田町、新谷千布美撮影

 長浜市に戻ったのは、翌46年1月。進駐軍から雑役を命じられ遅くなった。死んだと思っていた長男の突然の帰宅に、家族は「お化けかと思った」と驚いた。

 戦後、繊維会社へ。進駐軍の雑役で培った英語力を生かし貿易を担当した。70年代後半、日米で約20万人が亡くなった沖縄戦の犠牲者の遺骨がなお、野ざらしと知った。特攻隊員だった自分は死ななかったのに。「せめて償いたい」と、年1回の遺骨収集ボランティアに参加。2005年まで通算18回加わった。

 「経済力に大きな差がある中で無理に戦争を進め、軍人だけでなく一般の人も苦しめた。戦争は絶対にしてはいかん。絶対です」

拡大する写真・図版沖縄で収集した遺骨=1999年、本人提供

 〈特攻〉 日本軍が編成した「…

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

この記事は有料会員記事有料会員記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

この記事は有料会員記事有料会員記事です。

2種類有料会員記事会員記事の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら