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 「これ、貴重な写真だと思いません?」。福島県福島市で避難生活を送る看護師今野千代さん(67)が一葉の写真を見せてくれた。時計の針は午後4時少し前。医師を囲んで、看護師が笑っている。「3月11日の震災直後の写真です。研修医の勤務の最終日で、お昼にお別れ会をやって、直後に大きな揺れに襲われ、さよならの前に写真をパシャッと。診療所で写した最後の写真になりました」

 東京電力福島第一原発から北西に約30キロ。37年間勤務した山間の浪江町の津島診療所に、海沿いの浪江町の市街地から多くの人が押し寄せてきたのは3月12日の朝だった。原発が危機的状況に陥ったため、政府が早朝、原発の半径10キロ圏内に避難指示を出していた。

 人口約1400人の津島地区に避難してきた町民は約8千人。何も持たずに避難してきた町民たちは持病の薬を求め、診療所の前に長い列を作った。医師の処方に応じて薬を手渡す。普段なら40人程度の患者数が、この日だけで330人を超えた。薬がすぐに足りなくなった。

 3日後の15日には「診療所を閉鎖して津島地区からも避難するように」と指示された。避難した二本松市の東和地区では、公共施設の床に寝たきりの高齢者らが約20人、雑魚寝させられていた。「このままでは死んでしまう」と施設の片隅を借りて臨時の診療所を開設し、医師と治療に当たった。「もう何もかもが夢中でした……」

 津島地区は原発事故後、全域が帰還困難区域になり、まるで一つの家族のようになって暮らしていた住民たちは今、県内外でバラバラに散らばって暮らしている。

 今野さんはその後、同市の安達運動場に移設された診察所に1年半勤め、定年退職した。今は体を安めながら、かつて受け持った津島地区の患者の身を案じている。携帯電話を持っていない高齢者も多く、連絡を取り合えないのがたまらなく寂しい。

 震災後、新聞の購読を始めた。おくやみ欄の名前をチェックするためだ。「津島では誰かが亡くなればすぐにわかった。でも原発事故以来、そんな『当たり前』のことでさえ、わからなくなってしまった」

 持病の薬は飲んでいるだろうか。体調は悪化していないだろうか。「みんな、元気?」と伝えたい。(三浦英之