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 生還を期せず、飛行機や魚雷に乗って敵に体当たり攻撃する「特攻」。なぜ、太平洋戦争末期の日本軍だけが、この特異な戦法を組織的に行ったのか。推進者さえまっとうな作戦と考えていなかった特攻の、思想的な背景を探った。

 神風特別攻撃隊の初めての出撃は1944年10月のことだったが、その1年以上前の43年夏ごろには海軍中枢で特攻の検討が始まり、陸海軍の現場でも特攻の志願・提案が相次いでいた。軍内部に特攻を是とする土壌が存在していたことになる。

 海軍中尉・黒木博司は43年秋、自爆攻撃を嘆願する「血書」を海軍に提出した。12月に魚雷を有人化した特攻兵器を仁科(にしな)関夫(せきお)少尉と提案し、44年8月に「回天」として正式採用された。だが、黒木は訓練中に海底に沈んだ回天に閉じ込められ22歳で殉職。窒息死までの約半日、回天の改良点を指摘したメモや遺書を綴(つづ)り、回天の内壁には「天皇陛下万歳」と刻んだ。

日本人の理想とされた楠木正成

 何が黒木を特攻へと駆り立てたのか。黒木が師事し、心酔していたのが平泉澄(きよし)・東京帝国大教授だった。実証的な歴史学者だった平泉は、昭和初期に日本が国際社会で孤立を深めていくと、日本を「神の国」とする「皇国史観(こうこくしかん)」の第一人者となった。

 平泉が称揚したのが、14世紀…

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