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 今年の高校野球はコロナ禍で春の選抜大会が中止になり、夏の全国選手権大会も中止になった。ただ、磐城の菅波陸哉(3年)には、その2大会がなくなったのと同じくらい、ショッキングだったことがある。

 21世紀枠で出場を決めていた選抜大会のベンチ入り選手が発表されるときだった。当時、磐城の部員は19人。選抜でベンチ入りできるのは18人なので、1人外れることになる。木村保監督(当時)から次々と名前を呼ばれる同級生や、下級生たち。菅波だけ、最後まで呼ばれなかった。

 昨秋の東北大会では背番号16。試合には出られなかった。「チームの役に立てていない自覚はあった。甲子園ではチームのためにプレーしたい、活躍したい、と。メンバーに選ばれるように頑張っていた」。外野の控えだが、守備より打撃に自信がある。冬場は学校へ早めに来て、ティー打撃などをこなしていた。

 木村監督からは声をかけられた。「『別にお前が何か悪いことをしたわけじゃない。私生活がダメだとか、練習にまじめに取り組んでいない、というわけでもない。チームのために、一緒に頑張ってくれ』と」。実力不足で背番号がもらえなかったと、理解はした。しかし、悔しい。「精神的にきつかったです」。練習に行くのが、嫌になった。

 3月11日に選抜大会が中止になり、ほどなく、木村監督の異動も発表になった。3月29日、選抜で使うはずだった背番号を縫い付けたユニホームの「贈呈式」が予定されていた。学校へ向かう菅波の足は重い。「僕のだけないから」。ところが、木村監督は背番号19を用意してくれていた。

 「本当は存在しない背番号。僕のために……。ありがたかったです」。数字のデザインや素材まで、18番までとまったく同じものだった。木村監督は語りかけた。「選抜の中止が発表になってからも、チームのために努力していたのを見ていた。離れてしまうが、頑張ってくれ」

 背番号をもらえなかったあの日から、練習へ気分が乗らなくても、チームを気まずい雰囲気にだけはしたくなかった。「もう切り替えた」と自分から他の部員に話しかけた。木村監督は、そんな姿をちゃんと見ていてくれた。

 19番を受け取ってから、もうすぐ5カ月。この間、コロナ禍は終息せず、春の福島県大会も夏の全国選手権大会も、なくなった。部活をやめ、大学受験に備えようかと悩んだ時期もあった。「甲子園で見返したい気持ちだけでやってきたので、その甲子園がなくなったのに、野球をやる意味があるのか、と」

 踏みとどまれたのは、仲間がいたからだ。あの、背番号をもらえなかった日も、いつもと変わらず接してくれた。「秋の大会から、1回も試合をしていない。このまま終わっていいのか。このまま引退すると、絶対に後悔すると思った」。もう一度、野球に向き合って、毎日を過ごしてきた。

 甲子園交流試合での背番号は16。15日、国士舘との試合では、エースの沖政宗(3年)に飲料を持って行くなどグラウンドに出ている選手をサポートしたが、出番は最後までなかった。

 19の背番号はいま、自分の部屋の小さなタンスの上にある。

 「1人だけベンチ入りから外れて、その大会が中止。こんな経験したのはホント、僕しかいない。つらかった。でも、今思うと、人として成長できる経験だったのかなと思う。多少のことは諦めない、ってことは学んだかな。いま、19番を見ると悔しい。あの経験があったからと将来言えるように、頑張りたい」

 19番は、ずっと大事にする。これから先の人生で、つらいこと、苦しいことにぶつかったら、きっと心を奮い立たせてくれるだろうから。(山下弘展)