拡大する写真・図版対馬丸事件76年の慰霊祭にマスク姿で集まった参列者=2020年8月22日午前10時1分、那覇市の小桜の塔、木村司撮影

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 22日で76年を迎えた対馬丸事件。その犠牲者数はいまなお特定できていない。戦中も、戦後も、詳しい実態調査がなされなかったためだ。当時は大本営発表の下、日本軍による箝口令(かんこうれい)さえ敷かれ、その記憶が、戦後も生存者らに重くのしかかってきた。

〈対馬丸事件〉 1944年8月22日、沖縄の那覇から長崎へ向かう学童疎開船「対馬丸」が鹿児島県のトカラ列島悪石(あくせき)島付近で、米潜水艦の魚雷攻撃をうけて沈没した。乗船していた約1800人のうち、約1500人が亡くなった。

 対馬丸記念館(那覇市)に保管されている資料には、漂流して救助された生存者が、憲兵らから「口外するな」などといわれた証言が複数残る。沖縄では撃沈のうわさも流れたが、憲兵に「流言飛語を流す非国民」として留置場に入れられた遺族もいた。疎開は地上戦を前に日本軍の食糧確保という目的もあり、さらに勧めるため秘匿されたともいわれる。

 生存者の上原清さん(86)=うるま市=は6日間漂流し救助された後、警察から「対馬丸のことは誰にも話すな」と言われた。当時10歳。現在は体験談を修学旅行生らに語る上原さんだが、公に話せるようになったのは、事件から50年ほど経ってからだった。「悲惨な経験を口止めされた記憶が、ずっと心の傷のようになっていた。生き残ったことへの悔いや罪悪感もあった」

 コロナ禍で講話の機会は減っているが、今はこう思う。「犠牲になった友人たちに対し、私ができるせめてもの弔い。機会ある限り、伝え続けていきたい」

 記念館には、箝口令で沖縄に残…

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