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 一般の方にとっては「何だこれは」と思われるだけかもしれません。でも、私にとっては忘れられない一枚です。

慶応大医学部の研究者に、それぞれにとって忘れられない一枚についてインタビュー。これまで歩んだ道のり、研究への思いとあわせて紹介します

 この写真は、「がん幹細胞」と呼ばれる特殊ながん細胞に対する治療の可能性を、胃がん患者さんのがん組織で初めて確認することができた画像です。2017年に公表しました。30年間続けてきた基礎研究の一つの到達点であり、本格的な治療法開発に向けた出発点でもあります。

拡大する写真・図版がん幹細胞への効果を示した、がん組織の病理写真。スルファサラジンを使うと、使う前(右下の黒枠内)と比べて、濃い紺色に染まったがん幹細胞が大きく減った(Gastric Cancer〈2017〉20:3419-349)=佐谷さん提供

 がんの治療法は大きく進展してきましたが、まだ多くの場合、がんを根治させることは簡単ではありません。その理由の一つとして、がん幹細胞の存在が指摘されてきました。がん細胞はすべて同じ性質をもっているのではなく、女王蜂のような細胞と、そこからつくられる働き蜂のような細胞があるのではないか、というものです。

「女王蜂」がいる限り

 がんは、抗がん剤などでいったん小さくなっても、しばらくしてまた増殖してくることがよくあります。それは、働き蜂であるふつうのがん細胞が死んでも、女王蜂としての特殊ながん細胞が生き残り、再び働き蜂をつくり始めるからではないか、と推定されるようになったのです。この場合の女王蜂に相当するのが、がん幹細胞というわけです。

 がん幹細胞は1990年代後半に、ヒトの白血病においてその存在が証明されました。幹細胞は自らを複製しつつ、別の細胞に分化する性質をもっています。

 この写真は、進行した胃がんの患者さんに「スルファサラジン」という薬を飲んでもらい、飲む前と後とで、がん幹細胞の量がどうなったかを比べたものです。濃い紺色に見える場所は、がん幹細胞が存在することを示します。スルファサラジンを飲んだ後では、幹細胞が大きく減ったことを意味しているのです。

 スルファサラジンは、リウマチの治療に使われている薬です。なぜこれを使ったのか。それは、私たちが調べたがん幹細胞の性質が関係しています。当時私は熊本大学で研究していて、がん幹細胞は「CD44v」というたんぱく質を持っていることが分かりました。2007年に慶応大に移って研究を続けたところ、CD44vはがん細胞の中で、「xCT」という分子を活性化し、活性酸素を低下させる働きをしていました。活性酸素は抗がん剤や放射線などによって生じて細胞を殺す、いわば毒です。がん幹細胞はCD44vおよびxCTという解毒機構を備えているために、抗がん剤などに対して抵抗力があってなかなか死なないということを突きとめました。

再発遅らせる効果確認

 いま市販されている薬の中で、このCD44vの働きを抑える作用をもつものがないか調べたところ、スルファサラジンがそうだと分かりました。そこで、細胞や動物での実験を経て、国立がん研究センターなどの協力を経て、実際のがん患者さんで確かめさせてもらうことができました。それがこの写真です。九州大との共同研究では、病気が進んでもう手術ができない難治性の肺がん患者さんに対し、通常の抗がん剤にスルファサラジンを上乗せすることの効果を調べました。すると、抗がん剤のみだった人たちと比べ、スルファサラジンを加えた人たちでは平均7カ月ほど、がんが再発するまでの期間を延ばすことができました。

拡大する写真・図版さや ひでゆき=慶応義塾大先端医科学研究所遺伝子制御研究部門教授。テキサス大MDアンダーソンがんセンター助教授、熊本大医学部教授などを経て現職

 私はもともと脳外科医でした。「ブラックジャック」のような名外科医になりたかったのです。医師になって最初のうちは頭部外傷や脳血管障害などの治療に携わりました。ある程度手術の腕や度胸を磨いたと思っていたのですが、間もなく悪性脳腫瘍(しゅよう)という大きな壁にぶつかりました。手術や放射線、抗がん剤とあらゆる手を尽くしても、患者さんたちはすぐに再発し、次々と亡くなってしまう。「悪性脳腫瘍は外科医の手には負えない」と思って、臨床医をいったんやめて基礎研究を始めました。

 その後、米国の大学や著名ながんセンターなどにも在籍し、長く研究を続けてきましたが、なかなか患者さんの治療に成果を結びつけることができなかった。それだけに、スルファサラジンによる効果を確かめることができたこの写真には思い入れがあります。

 ただ、治療法の確立にはまだまだ課題があります。

 この薬はずいぶん前から使われていて、特許も切れています。このため、がんの治療薬として実用化できても、製薬会社にとってのメリットが小さく、多額の費用がかかる薬の臨床試験に乗り出す企業が見つかりません。飲み薬である現在の使い方では、効果も十分とは言えません。

 そこで、スルファサラジンに化学的な操作を加えることで、静脈から注射するタイプの新しい化合物をつくることができました。これならより高い効果が見込め、新薬になるので特許も取ることができます。国の研究費を得て、いま動物での試験を続けているところです。手術や抗がん剤などで、がん細胞がなくなったように見える患者さんにこの薬を使い、残っているがん幹細胞をたたき、がんの再発を防げるようになることを目指しています。

 また、スルファサラジンは長く使っていると、やはりがん幹細胞の中に抵抗性を示すものが出てくることがわかってきました。やはり単一の薬では難しい面があるようです。そこで、スルファサラジンと一緒に使ったときにだけ、がん幹細胞を効率にやっつける薬を探しました。すると、「ジクロニン」という麻酔薬の成分に、そのような能力があることがわかったのです。

 私たちは、ジクロニンと化学的な構造がよく似ていて、より安全性が高く使いやすい「オキシフェドリン」という血管拡張薬の成分を使い、臨床研究につなげることを目指しています。実用化までには数年がかかると予想されますが、なんとかやり遂げたい。

 外科医としての無力感をきっかけに歩み続けた基礎研究の道と、患者さんを救えるようにする臨床研究の道。私にとってこの写真は、それぞれの道の交差点に位置しているのです。