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 千葉市内では最大級の戦争遺跡だった旧陸軍「気球連隊」の格納庫の解体が今月から始まった。戦後は民間で倉庫として活用されていたが、老朽化が進み保存が難しくなっていた。戦後75年が過ぎ、軍都だった市内でも往時を感じる建造物は少なくなっている。

 解体作業が始まったのは、1930年代に建てられた気球連隊の第2格納庫。面積は約1650平方メートル、高さは約15メートルで、市内に現存する戦争遺跡のうち建築物としては最大級だった。

 すでに取り壊された第1格納庫は第2より規模が大きく、ガスを入れたままの気球が格納されていたことが分かる写真が残されている。第2は建物の構造などから、一部は隊員の宿舎に充てられていたとみられる。

 戦後は倉庫として活用され、直近では川光倉庫(本社・市川市)が所有。内部を4階に区切り、今年6月までコメなどを保管していた。だが、昨年の台風などで天井が破損。ほかの部分でも老朽化が目立つようになり、住宅事業を手がけるメーカーに売却された。

 地域の住民が解体前の19日に企画した見学会には県内外から約570人が参加。45年7月の千葉空襲で焼け出されて、戦後間もなく連隊跡地に入植した石井進さん(91)は「時代だと思うしかないが、さみしい」と話す。空襲で焼失した小学校の校舎として使われていた時期もあり、特徴ある内部の鉄骨構造を懐かしむ卒業生もいたという。

 市立博物館協議会委員長の萩原司さん(73)によると、千葉市内で建造物として残る旧軍の大規模施設は、陸軍鉄道連隊の材料廠(しょう)だけという。千葉経済大(同市稲毛区)の敷地内に残り、県の指定有形文化財になっている。

 萩原さんは市が毎夏、行っている戦跡めぐりの案内役を3年前から務め、格納庫もコースに入れていた。「所有者が公開まで協力してくれた貴重なケースだった。今後残る建物をどのように保存し、歴史を伝えていくかは大きな課題だ」

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 レーダー開発以前、戦場で敵の状況を知るには目視か聴覚で行うしかなかった。目視は高い位置から行うのが有利なため、欧州などで19世紀から気球の活用が始まった。

 旧陸軍が実戦で最初に気球を使ったのは1904年の日露戦争とされる。旅順攻撃時、市街地や港湾の様子を明らかにした功績から翌年に気球班として正式に位置づけられた。27年に千葉県都賀村(現千葉市稲毛区)に移転し、36年には開発・教育を任務とする気球連隊に格上げされた。

 しかし、第2次世界大戦を前に気球は実戦では使えない存在になっていた。それが明らかになったのが、1939年の「ノモンハン事件」とされる。

 ノモンハンで日本と旧満州国の連合軍の陣地は、高台にある旧ソ連・モンゴル連合軍から見下ろされる位置だった。偵察のため揚げた気球はソ連の航空機に相次いで撃ち落とされ、結果として日本側の敗退につながった。飛行機や長距離砲の利用が前提となった戦闘に対し、気球が旧式兵器なのは明らかだった。

 気球が再び日の目を見たのは制空権を失った大戦末期。偏西風を利用した風船爆弾で米本土の爆撃を狙った「ふ号作戦」の中核になったのが気球連隊だ。焼夷(しょうい)弾を積んだ風船爆弾は44年11月~45年3月に約9千個が放たれた。約300個が到達した記録が残るが、戦果は乏しかった。

 格納庫の見学会を企画した満冨五夫さん(66)は「軍は気球が時代遅れになっても隊の存続にこだわった。同じような話は今の時代にもたくさんある。建物はなくなっても、そんな反省は語り継いでいかないといけない」と話す。(重政紀元)

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