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 振り返ると、有名な戦国武将ゆかりの地で生活してきた。昨年の春に赴任した上越市は、言わずと知れた上杉謙信のまち。だけど県外の出身だから、謙信像はぼんやりとしか浮かばない。謙信が身近に感じられるような話をうかがった。(鈴木剛志)

 “太閤”豊臣秀吉ゆかりの大阪で生まれ、“東照神君”徳川家康ゆかりの静岡で育った。記者になってからは東日本大震災の後、“独眼竜”伊達政宗ゆかりの仙台に赴任した。3人に説明の必要はないだろう。戦国時代を題材にしたテレビドラマに何度も登場するし、天下人の秀吉や家康に至ってはその生涯が教科書にもかなり詳しく載っている。虚実ない交ぜだろうが、脳内には3人の姿が像を結んでいる。

 一方の謙信。越後の覇者であることは知っていた。他には、川中島の合戦(長野市)で武田信玄と相まみえたこと。それと「敵に塩を送る」の故事ぐらいだ。

 だけど上越市では、道路や公共施設に謙信の名が冠されるなどいまだに親しまれている。どんな人物だったのか。謙信研究の第一人者のひとり花ケ前(はながさき)盛明さん(82)にうかがった。

 花ケ前さんは、謙信とも関係が深い居多(こた)神社(上越市五智6丁目)の宮司。かつては高校の日本史の先生で、謙信や上杉家に関する著書も多数ある。

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 「謙信の戦いの記録はかなり残っています」。花ケ前さんの調査では、謙信は15歳(数え年。以下同じ)で初陣を飾り、三十数年後に死去するまで70回の戦いに臨んだ。

 花ケ前さんの判定では、負け戦は20代までの2回だけ。70回のうちの5回が川中島の合戦だが、戦績はすべて引き分けだ。三方ケ原の戦い(静岡県)で家康と織田信長の連合軍を破った信玄に負けないだけでも、強い武将だったのが分かる。だが戦費調達のため、越後の領民に重い負担を強いてはいなかったか。

 「反乱の記録はありません。領民には慕われていたのではないでしょうか」と花ケ前さん。「謙信が亡くなった時、春日山城には約3万両の黄金が残っていたそうです」

 潤沢な財力は、鳴海金山(村上市)や魚沼地方の銀山が支えた。また、領民に「からむし」という植物の栽培を奨励し、からむしからとれた繊維や領内の日本海沿岸で作られた塩の交易で財を築いたという。

 塩と言えば、信玄に送った理由はなんなのか。「謙信が直接、信玄に送ったのではありません」。

 越後の商人が信玄の領内で商売…

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