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 75年前の夏のことは、いまでもはっきりと覚えている。満蒙開拓団として入植した中国東北部(旧満州)で、現地の中国人に襲われ、命からがら逃げ惑った。埼玉県秩父市の高橋章さん(85)は、自分たち開拓団は被害者だが、加害者でもあったことを忘れてはならないと思う。

拡大する写真・図版「過去を忘れることはできないし、忘れてはいけない」と語る高橋章さん。犠牲者の名前が刻まれた開拓団の慰霊碑前で=2020年6月2日、埼玉県秩父市、大久保真紀撮影

 1943年、8歳の時に父母ときょうだいの家族7人で中川村(現秩父市)から開拓団として中国東北部に渡った。あとで知ったことだが、「開拓」とは名ばかりで、入植したのは現地の中国人が何代にもわたり耕し、家族を養ってきた土地だった。開拓団員たちはそうした中国人を「苦力(クーリー)」と呼んで働かせていた。

 「父はうちの苦力の許(シイ)さんをたたかなかった。だからか、旧正月には許さんの家に呼ばれてギョーザを食べた。私もよく家に遊びに行った」。

 45年7月、18歳から45歳の男性が召集された。いわゆる「根こそぎ動員」で、高橋さんによると、中川村開拓団でも137戸のうち124戸の戸主が徴兵された。43歳だった父も応召し、二度と帰って来なかった。旧満州の部隊の所属になり、シベリア抑留に向かう列車の中で死亡したと戦後、聞いた。

 8月に入り、苦力の雰囲気が変わったのを感じた。畑に出てこなくなり、馬を返しにこなくなった。ソ連軍の侵攻を知り、日本の敗戦を中国人は予感していたと後に知った。当時、高橋さんら開拓団員は情勢を全く知らなかった。

 そして、同月15日。苦力が鎌…

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