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 1956年10月、日本とソビエト連邦(当時)は日ソ共同宣言に調印し、国交を回復しました。その交渉過程でソ連側と渡り合ったのが、鳩山一郎内閣で農林相を務めた河野一郎氏でした。息子の太郎氏が沖縄北方相に就任し、自身も外相などとして北方領土問題の解決に向け努力した河野洋平元自民党総裁が、父である一郎氏が奮闘した日ソ交渉の裏側を語ってくれました。

 ――56年の日ソ国交回復に至る過程で、河野一郎さんは2度、ソ連に行きました。大変な覚悟ではないですか。

 最初の訪ソの少し前、オヤジと2人で車に乗っていた時、「今度の交渉は何があるか分からん。万一のことがあったら、頼むぞ」と言われて、びっくりしました。私はまだ学生ですから。オヤジは死んだ兄貴がお気に入りで、なにかっていうと「アイツがいればな」と言われました。でも、その時はばかに「しっかりしろよ」と一人前扱いされたもんですから、驚きました。

拡大する写真・図版こうの・ようへい 1937年、河野一郎の次男として生まれる。67年衆院議員初当選。93年に当時野党だった自民党の総裁に。村山内閣と第2次小渕内閣・森内閣で外相を務める。2003~09年、衆院議長。写真は越田省吾撮影

 命をかけるという覚悟だったと思います。大使館もなければ、誰もいない。そこにいきなり行くわけですからね。それはもう、大変なものでした。何があっても不思議ではない。事実、どうやってモスクワまで行くのかもよく分かっていなかった。とにかくロンドンまで行って、ストックホルムで待機して……。ストックホルムまで行ったら、飛行機が(ソ連から)迎えに来て、それに乗って行く。降りた時にはどういう扱いになるのか分からないわけです。

 第2次世界大戦末期、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、北方領土を占領します。戦後、サンフランシスコ平和条約にソ連は参加せず、日本とは法的に戦争状態が継続していました。鳩山一郎首相は国交回復に踏み出しますが、北方領土の扱いをめぐって交渉は難航していました。

強烈な印象のフルシチョフ

 ――日本が択捉、国後、歯舞、色丹の4島返還を要求して、交渉が一時中断した時に、一郎さんは56年春、クレムリンに乗り込み、ブルガーニン首相と直談判して、再開に持ち込みました。さらに同年10月、交渉の最終段階では、鳩山首相らとソ連を訪問し、最高実力者フルシチョフ(共産党第1書記)との「一騎打ち」で宣言文をまとめたそうです。印象に残るエピソードはありますか。

 とにかくフルシチョフですね。相当タフな交渉相手だったそうです。もういきなり高圧的な態度で「お前は日露戦争の時に勝ったからといって、あの辺り(北方領土)みんなとったじゃないか。今度は俺たちが勝ったんだから、俺たちがとるのは当たり前だ。それを自分の権利のように言うのはおかしい。ぜんぜん話にならん」と言われて。オヤジは最初は「箸にも棒にもかからん状況だった」と言ってましたね。

拡大する写真・図版56年5月、交渉のいきさつを朝日新聞記者に語る河野一郎農相。当時、ソ連がオホーツク海の一部を「漁業制限区域」として、日本の漁船を拿捕(だほ)するなどしたため、河野氏に白羽の矢が立った

 オヤジは交渉時に2回、そして交渉後の62年に1回、訪ソしましたが、最後の時、私に一緒に行けと言ったんです。それは、よほどフルシチョフを気に入ったということ。かたやフルシチョフは最高実力者、かたやオヤジは農相で、ちょっと失礼かもしれませんが、カウンターパートとして、とても気に入ったんです。それで、せがれを会わせておきたいという気持ちがあって、「私に行け」と。「カバン持ちとしてついてこい」と言うんで。「とにかくフルシチョフに会わせたい」ということだった。行って、会ったって、ほんの数分ですよ。部屋から出てきて、握手して、二言三言あいさつして、それで終わりです。

 けれども、オヤジが帰りの飛行…

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