【動画】鹿屋特攻基地の特攻隊員が出撃前に滞在した野里国民学校跡=稲野慎撮影
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 のどかな田園風景の上空を、数キロ先にある海上自衛隊鹿屋航空基地所属の航空機が轟音(ごうおん)をたてながら通りすぎていった。

 鹿児島県鹿屋市野里町にある「野里国民学校跡」。太平洋戦争末期、若き特攻隊員たちが寝食をともにしながら出撃命令を待った場所という。すでに校舎や校庭は姿を消し、生々しい弾痕がところどころに刻まれたコンクリート造りの国旗掲揚台だけが残る。

 「このあたりの風景はほぼ当時のまま。ここから何人もの若者が帰らぬ人となりました。私が最も案内したい場所です」

 市内の戦跡をめぐる平和学習ガイドを務める迫睦子さん(73)がそう言って、案内してくれた。

 海上自衛隊の鹿屋航空基地史料館によると、戦時中に海軍・鹿屋基地から出撃し、亡くなった特攻隊員は908人。南九州市知覧町にあった知覧基地からの戦没者439人の2倍以上で、国内有数の特攻基地だったという。

 特攻隊が出撃した鹿屋で、特に語り継がれてきたのが有人ロケット「桜花(おうか)」。機体前部に1・2トンの爆弾を搭載した1人乗りの特攻機。母機の攻撃機の下部につるされ、敵艦近くで切り離された後、ロケット噴射で米軍艦艇への体当たりを想定した捨て身の兵器だった。「人間爆弾」と呼ばれ、米軍はこれに「バカ爆弾」とあだ名をつけた。

 そうした歴史を持つ野里国民学校跡のそばには「桜花の碑」が建つ。特攻隊員たちが別れの杯を交わした場所で、石碑に刻まれた「櫻花」の文字は、当時、海軍報道班員として鹿屋基地に滞在していた作家の故・山岡荘八(1907~1978)が揮毫(きごう)した。

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 山岡は戦後、朝日新聞の連載「最後の従軍」で、あるプロ野球選手について触れている。名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)の投手だった石丸進一。22歳だった1945年5月、鹿屋基地から特攻隊員として飛び立ち、亡くなった。その直前、野里国民学校で待機中だった石丸は、出撃命令を受けると校庭でキャッチボールを始めたという。

 山岡は連載にこう記す。

 「彼等は十本ストライクを通すと、ミットとグローブを勢いよく投げ出し、『これで思い残すことはない。報道班員さようならッ』。大きく手を振りながら戦友のあとを追った」

 この学校跡の前に広がる田んぼの一角がそのキャッチボールの現場と言われている。ガイドの迫さんはそう教えてくれた後、静かに付け加えた。

 「石丸さんはプロ野球選手として頑張っていくという大きな夢があったと思います。ほかの若者たちも夢を抱いていたでしょう。でもみんな亡くなってしまった」

 迫さんは小学校の元教諭。教壇に立っていた頃から、市内の戦争遺跡や実話に関する資料を収集してきた。5年前から、修学旅行生らに戦争遺跡にまつわる歴史や実話を伝える平和学習ガイドとして活動を続けている。

 戦後75年。当時を知る人は次々と鬼籍に入り、一部の戦争遺跡は解体され、市民の間ですら当時の記憶は薄れつつある。

 「このままでは、『あの時』の事実や記憶が消えてしまう。その危機感が私の活動を支えています」

 コロナ禍の影響で、今年は戦跡の案内は大幅に減っているという。それでも、粘り強く、戦争やその遺跡にまつわる話を伝えていく覚悟だという。(稲野慎)

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