拡大する写真・図版防潮堤の前を散歩する住民=2020年7月3日、宮城県石巻市雄勝町、小玉重隆撮影

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 「日本一美しい漁村」と呼ばれた宮城県石巻市雄勝(おがつ)町に、東日本大震災後にできた巨大な防潮堤は、町の風景を一変させた。そそり立つコンクリートの壁の前に立っても、かつて聞こえたという、波の音は聞こえない。地元では、住民も行政も巨大防潮堤に頼らない復興を目指したが、結果として雄勝は「壁に囲まれた町」になった。一体、何があったのか――。=敬称略

学校も商店も かつて600世帯、今は草地に

 石巻市にある三陸道・河北インターチェンジを降り、北上川の岸辺を車で30分ほど走ると、旧大川小学校が現れる。震災の津波で、多くの児童らが犠牲になった場所だ。そこから、ひと山越えたところに同市雄勝町はある。

 トンネルを抜けると、目の前には、工事現場が広がる。土煙を上げながらダンプカーが行き交い、道路の整備が続く。市街地でほぼ終わっている復興事業が、ここではまっただ中だ。

 左手に山が迫る砂利道を進むと、右手に直立する高い壁が見えた。高さ9・7メートルの防潮堤だ。近くにあるはずの海は見えない。

 コンクリートの壁の間近に立つと、その巨大さに圧迫感さえ感じる。耳をすましても波の音も聞こえない。壁は延々と続き、白い大蛇が横たわっているかのようだ。

拡大する写真・図版町の中心部へと続く高さ9.7メートルの防潮堤=2020年7月2日、宮城県石巻市雄勝町、ドローンで小玉重隆撮影

 道路の両脇には、草地が広がる。震災前、ここに600世帯が暮らす町があったことは、人から教わらなければ、わからないだろう。保育所も小学校もあり、多くの商店があった。いま、何もないことが、高さ10メートル以上もの津波が襲った事実を物語る。

 道を進むと、今年5月に完成した雄勝硯(すずり)伝統産業会館と観光物産交流施設「おがつ・たなこや」に着いた。高台にあり、ようやく両脇を山に囲まれた雄勝湾が一望できた。物産館の窓ガラスに貼られた「日本一美しい漁村 雄勝」のステッカーに、ここは本来、全国に自慢できる風光明媚(めいび)な場所であることに気づかされる。

拡大する写真・図版画面中央の雄勝硯(すずり)伝統産業会館と観光物産交流館は、高さ約9メートルの盛り土をした場所に建てられた。一方、再建された住宅は2011年の津波が来なかった高さ20メートルに建てられた=2020年7月2日、宮城県石巻市雄勝町、ドローンで小玉重隆撮影

 「こんな高い防潮堤なんて、本当にいると思いますか。私だって、ない方がいいと、今も思っています」。そう話すのは、今年3月まで、地元の雄勝総合支所長だった阿部徳太郎(61)だ。

 2005年に、旧石巻市と周辺の6町が合併するまで、雄勝は単独の町だった。町役場は「雄勝総合支所」に看板が変わった。市役所の出先機関の支所も、高い防潮堤を望んでいなかった。

 津波で壊滅した雄勝。復興への道筋をつけるため、震災の2カ月後に「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」ができた。地元の地区会長や漁協、商工会の代表者、公募も含め、メンバーは36人。事務局は支所が担い、官民一体の組織だった。

 協議会の副会長を務め、まちづくりのリーダーだった高橋頼雄(53)は「まちがないところからのまちづくりだが、前に進んでいるので期待してください」。支所で事務局役を務めたのは三浦裕(64)だ。のちに支所長となった。

 防潮堤はいらない――。住民と役所職員と、立場は違ったが、高橋と三浦の思いは同じだった。

拡大する写真・図版湾に抱かれた雄勝の中心街。三角屋根が目印の当時の雄勝硯伝統産業会館も被災した=2011年9月24日、宮城県石巻市雄勝町、小宮路勝撮影

雄勝の未来へ、同じ方向を向いていたはずの2人は、いつしか道をたがえていきます。記事の後半では、強硬な宮城県の姿勢に1人が「もうどうしようもないんだ」と考えを曲げ、もう1人が町を去るまでの経緯を追います。

■生き残ったのは「雄勝を救えと…

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