佐藤仙務
「俺みたいになりなさい」
10月上旬のある日、母に両手を添えられ、私は祭壇に向かって合掌をしていた。葬儀場の窓から見える景色は、まるで私の心を映しているかのように、雨がしとしとと降り続いていた。
合掌を終えると、先生の声が聞こえた気がした。遺影には屈託のない笑顔がきざまれている。先生の豪快な笑い声に、学生時代の私は何度勇気づけられたことか。「俺みたいになりなさい」という言葉は青木先生の口癖だった。
初めて先生と出会ったのは中学生のときだった。
私が通っていた特別支援学校は小中高の一貫で、当時、青木先生は高等部の体育教師だった。いでたちは動物のクマみたいで、性格も絵に描いたような元気印の先生だった。
当時の私は性格があまりポジティブではなかった。思春期ということもあるが、どこか少し冷めていたところがあった。自分のことも心から好きとは言えず、ましてや、「あなたたちの障害は個性です」ときれいごとをいう大人に対してはいつも鼻で笑っていた。
そんなある日、学校のエレベーターでたまたま青木先生と乗り合わせた。
「お前、何年だ?」
突然、声をかけられた私は少し間をあけて「中3です」とぼそっと答えた。すると、青木先生は「声が小せえなぁ」と言ってこう続けた。
「じゃあ、来年から高等部だな。早く高等部に上がって、俺みたいになりなさい!」
エレベーターの中なのに、耳が痛くなるほどの大声に驚いた。なにより、「俺みたいになりなさい」なんて自分で言うことに。それを言うなら普通、立派な大人になりなさい、ではないのか。この先生はどれだけ自分に自信があるのだろうか。
「変わった先生だな」と心の中でつぶやいたが、一方でこんなことを感じた。「僕が持っていない何かを持っている人だ」
青木先生の周りは必ずといっていいほど、生徒の笑い声であふれていた。休み時間には、生徒以上に全力で遊んでいた。他のクラスに迷惑なのではと思うほど、大きな声で歌っていたこともあった。自身の頭が薄くなったことをネタにしたり、生徒たちと一緒になって若いほかの先生をいじったりしていた。
教師という威厳はあまりなく、お世辞にも容姿端麗ともいえない。ただ、先生や生徒からの信頼と人気は高かった。
理由はシンプルで、青木先生は誰よりも「自分に正直に生きている」からだ。
誰に対してもおべんちゃらを言わない。障害のある生徒に対して、個性がどうのこうのと言うのではなく、「まずはチャレンジしろ。そして失敗しろ。最初はそれでいい」とよく言っていた。青木先生の言葉には、他の先生たちにはないエネルギーがあった。
「僕もいつか、青木先生みたいな自分に正直な人になりたい!」。中学を卒業するころにはそう思うようになっていた。
高等部に入学すると、青木先生と関わる時間が格段に増えた。
青木先生は体育だけでなく、進路指導も担当していた。よく相談を受けていて、私も時間を見つけては積極的に相談していた。
当時、私はよく「たとえ寝たきりでも、働いてお金を稼ぎたい。実は働いてみたいところもある」と熱弁をしていた。すると、青木先生は「おし、狙ってみろ。だめならそのときまた考えろ」と言ってくれた。
高等部3年の夏。希望していた会社での実習が決まった。このころは、青木先生は進路指導の担当ではなかったが、それでも私のことが心配だったようで、事前に「大丈夫だ。頑張ってこい」と激励の言葉をかけに来てくれた。
「ありがとうございます。実習後、ちゃんと先生にいい報告ができるように頑張ってきます」
私は大きな声でそう宣言した。青木先生も「よし、元気いっぱいに行って来い!」と返してくれた。
そのときはまだ、この実習によって就職をやめるという決断をすることになるとは、想像もしていなかった。
1991年愛知県生まれ。ウェブ制作会社「仙拓」社長。生まれつき難病の脊髄性筋萎縮症で体の自由が利かない。特別支援学校高等部を卒業した後、19歳で仙拓を設立。講演や執筆などにも注力。著書に「寝たきりだけど社長やってます ―十九歳で社長になった重度障がい者の物語―」(彩図社)など。ユーチューブチャンネル「ひさむちゃん寝る」では動画配信も手がける。
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朝日新聞社会部