池田良
拡大する海を望む孤島の病床=2020年9月28日、長崎市、池田良撮影
朽ちたベッドが並ぶ。周りには薬品用と思われる瓶が散乱し、天井や壁ははがれ落ちている。廃虚と化した病室から望む海からは波音が響いていた。
長崎市の沖合にある周囲約1・2キロの孤島・端島。「軍艦島」とも呼ばれる世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産)の島は炭鉱で近代日本の産業を牽引(けんいん)した。最盛期には5千人余が住み、その人口密度は当時東京23区の9倍に上った。世界一「密」な営みがあった。
拡大する閉山し無人島になってから40年余。島では感染症対策に力を入れていたという=2020年9月28日、長崎市、池田良撮影
長崎の近代都市史を研究する建築家の中村享一(きょういち)さん(69)は、島には明治中期の130年前から感染症から身を守る町づくりがあったと分析する。病院脇には隔離病棟もあった。
「当時流行した赤痢やコレラで発症者の多くが亡くなった。炭鉱労働者の医療態勢をつくることは、生産性を維持するためにも欠かせない対策だった」と中村さんは話している。
拡大する軍艦島にある病院の手術室と思われる一室=2020年9月28日、長崎市、池田良撮影
日本の感染症対策は1897(明治30)年の「伝染病予防法」の制定が起源だ。中村さんは「軍艦島の成り立ちからみると、当時に感染症に配慮した病院施設を設けたのは法制定以前の最先端の動きであった」とみる。
軍艦「土佐」を思わせる島の独特の景観や廃虚の景色が人気を集めている。だが、島には人の営みがあり、生き抜くための知恵が凝縮されていた。(池田良)
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朝日新聞社会部