榊原一生
朝日新聞パラリンピック・スペシャルナビゲーターの香取慎吾さんがさまざまなパラ競技に挑戦する「慎吾とゆくパラロード」。今回は「パラカヌー」です。東京パラリンピックのカヌー代表(女子カヤック)に内定している瀬立モニカ選手(22)=江東区カヌー協会=とともに、パドルを操りながら東京都内の川をさっそうと進んでみました。
パドルを力強く水面にたたきつけた。カヌーのスピードはぐんぐんと上がっていく。香取さんは思った。
《転覆という緊張感はもちろんある。だけど、気持ちがいい。》
そのスピードは障害の軽いクラスで時速約18キロ。「水上のF1」とも呼ばれる。瀬立選手はカヌーに乗る前に、香取さんにまっすぐ速く進むためのこつを伝えた。
《香取さんは力があるので、両側に水かきのついたパドルを左右同じ力でこぐことがポイントです。》
パドルは水をかく面が左右で少しずれている。香取さんは利き手でシャフトをしっかりと握り、反対の手は柔らかく握って利き手の動きに合わせて操作することを初めて知った。そして川に出る直前、瀬立選手のコーチからこう言われた。
《カヌーはそもそも水中に落ちるスポーツです。今日は風もあっていいツーリングができそうです。》
香取さんは安定感のあるレジャー用に乗った。一方、瀬立選手の競技用は水の抵抗を減らすため、細く造られていてバランスが取りづらい。香取さんに疑問が浮かんだ。
《体幹が利かない瀬立さんはどうやってバランスをとっているの?》
瀬立選手は言った。
《私は頭の位置でとっています。体を支えるため特別なシートで体幹を固定し、あごを引いて重心の真上に頭がくるようにしています。》
いざ川へ。パドル操作に苦戦しながらも、水上での非日常感を楽しむ香取さんを見て、瀬立選手はうれしそうだ。
《私は車いす生活のため陸上ではいけない場所があるけど、水上はバリアフリー。今、香取さんと同じ目線で舟をこぎ、話すことができています。これが魅力なんです。》
瀬立選手は健常のカヌー選手だった。高校入学直後に体育の授業で頭を打った事故が原因で下半身が不自由になった。当時について、母のキヌ子さんが思いを語った。
《地獄でした。どうしてこの子がこうなってしまったの、と、葛藤の毎日でした。娘の前では絶対に泣けない。だから家でワァーと泣いてそのまま寝ちゃって。その繰り返し。だから娘がカヌーで世界を目指すとなった時はうれしかったですね。》
3歳から始め、リハビリの一環で再開した水泳でパラリンピックを目指す道もあった。でも選んだのはカヌー。瀬立選手は言った。
《体を動かせなくても泳げることは予想できた。でも、この体でカヌーは無理と思った。できた時の喜びは水泳の何倍もあったんです。》
ケガをしてから、東京大会に向けて選手の育成を始めていた地元の東京都江東区に見いだされ、瀬立選手は実力を一気に伸ばした。
《コーチ派遣や練習場所の提供、カヌー費用でもお世話になっている。個人でやるにはハードルの高い競技ですが、区の支援体制のお陰で取り組みやすかった。感謝してもしきれません。》
香取さんはうなずいた。
《ケガはつらいことだったかもしれない。だけど、東京大会前に、地元の支え、という歯車がかみ合って今の瀬立選手があるんだね。世界に挑戦できる選手はそうはいない。運も大事。僕は運がよくてこの世界でここまできた感じです。》
瀬立選手は8位だったリオデジャネイロ大会に続き、東京大会日本代表に内定した。キヌ子さんは香取さんと会話する瀬立選手をじっと見つめ、口を開いた。
《今だから思うんです。なるべくしてなったのかなと。カヌーを頑張る娘をみると障害者になってやるものが見えてよかったと感じます。東京を目指す選手としてすごく成長したなと思います。》
瀬立選手の競技への思いは強い。
《競技をやることで生きる夢や希望を与えられたら。外に出られない体の不自由な方が出やすい環境をつくっていけるきっかけに私たちがなれれば、うれしいですね。》
香取さんは笑顔で返した。
《僕も思いは同じです。パラを知って興味を持ってくれたら、スポーツだけでなく社会が変わる契機になると思ってここまでやってきた。東京大会本番はここ江東区の会場ですよね。楽しみにしています。》(榊原一生)
瀬立モニカ(せりゅう・もにか) 1997年生まれ、東京都江東区出身。中学2年でカヌーを始め、高校1年の体育授業での事故で車いす生活に。2014年にパラカヌーに転向し、16年リオパラリンピックに出場。昨夏の世界選手権で5位に入り、東京パラ日本代表に内定した。クラスは最も重いL1。母のキヌ子さん(写真左)は、競技に向き合う娘を近くで支えている。
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