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 津波や原発事故で被災したふるさとを、やむなく離れた人は少なくない。移り住んだ人が多い仙台市やその周辺で、いくつも「同郷会」が続いている。東日本大震災からもうすぐ10年。遠く遠く離れていても、変わらぬ思いがある。

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 東松島市野蒜(のびる)地区など旧鳴瀬町で家を流され、仙台市に移った人たちは毎月第2土曜、「鳴瀬サロン」の名で青葉区の市民センターに集まっている。10月10日は15人が輪になり、各自の近況に耳を傾けた。

 「野蒜にお墓参りに行ったら、海岸の風が懐かしくてね」と、小野よし子さん(81)。仙台市の災害公営住宅に住む久光恵美子さん(78)は「震災から10年、仙台の人になろうと思っています」と報告した。

 避難していた知人同士が声をかけあうなどして、2012年夏に始まった。最初は皆、表情は暗い。4回めの会で、バルーンアートをつくってみた。うまくできずパンッ、パンッと風船が割れ、場が和む。「こんなに笑ったの、震災後初めて」と誰かが口にした。

 サロンの世話役は高橋明さん(67)。震災では自宅にいた母親(当時87)と生後8日の孫娘を津波で亡くし、何もできなかった自分を責めた。ふとしたはずみに当時の話が出る。「あんだも家族をなぐしたんだよね」「いやぁ、どうしようもねぐで」

 同じような経験をしたからこそ、つらい話をさらりと口にし、さらり聞き流せる場。「私たちは戦友みたいなもの」と、高橋さんは言う。来年2月でサロンは100回目を迎える。

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 10月7日、亘理町の施設の一室に、福島県浪江町出身の10人が県南部各地から集まってきた。和紙を使った小物づくりが得意な一人が、仲間に教えるのが、この日の「ふくしま仙台サロン」の趣向だった。

 鈴木荘司さん(77)は浪江町役場近くで酒米店を経営していた。原発事故で全町に避難指示が出され、仙台や秋田を転々とし、5年前、仙台市太白区に自宅を建てた。近所には「福島から」と明かさず、つき合いもない。毎月のこの会が、気兼ねなく楽しめる数少ない機会だという。

 亘理町に住む今福利子さん(65)は「昔からの知り合いじゃなくても、浪江の人だというだけで安心できるの」。いつも盛り上がるのは「浪江に新しく何々ができたらしいよ」などと、変わりゆくふるさとの話題だ。

 浪江からの避難者たちの交流会は、当初は町が雇った復興支援員が運営した。17年春に避難指示が解除されると、避難先にとどまる人への町の支援は細った。サロンは今は民間団体の支援を受けるが、鈴木さんは「何とか自分たちの力で続けられないか」という。

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 石巻市鮎川から移ってきた人たちが毎月、秋保温泉で日帰り入浴を楽しむ「仙台あゆかわ会」。在仙の気仙沼出身者が年1、2度集う「気仙沼はまらいんや会」……。参加はどこも高齢者が中心だ。

 震災直後は仙台のみなし仮設などで生活し、多くがいずれ帰郷をと考えた。ある人は病院通いが始まり、老後は子どもの近くにと考え、あるいは福島の現状に希望を持てず、一人また一人と、ついのすみかを決めていった。それでもふるさとを、忘れようがない。

 今年春はどの会もコロナ禍で中断したが、そろそろと再開している。ふくしま仙台サロンの連絡先は東北圏地域づくりコンソーシアム(022・353・7550)。鳴瀬サロンは高橋明さん(080・5562・9218)へ。(編集委員・石橋英昭

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 「ふくしま仙台サロン」などを支援する東北圏地域づくりコンソーシアム(仙台市)の高田篤事務局長は「震災直後は旧知の人と再会・交流する集まりが多かった。生活が落ち着いた頃から、そうした同郷会は減り、同じ経験をした者同士が避難先で新しいつながりを作るニーズに変わりつつある。被災自治体外に広域避難した人は支援が届きにくく、孤立しがちだ。受け入れ地域の社会福祉協議会などで、支える必要があるのでは」と話す。

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