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 東京六大学野球の秋季リーグは7、8日、優勝をかけた早慶戦が開催される。1960年秋にあった伝説の「早慶6連戦」から、ちょうど60年。「60年安保」で揺れ、東京五輪を4年後に控えた日本で、どんなドラマが生まれたのか。95年4月に朝日新聞紙上で安藤嘉浩(現・編集委員)が連載した記事をリニューアルしてお届けします。(敬称略)

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 60年秋、ひとつのドラマが神宮球場で生まれた。東京六大学野球の優勝をかけた「早慶6連戦」。「何が私を連日、マウンドに向かわせたのかは分からない。『負けてたまるか』。ただ、それだけだった」。1週間で5試合を投げ抜いた安藤元博は、35年がたった95年にそう語っていた――。

 「伝説の投手」安藤には当時、「ニュース屋」という愛称があった。自分の部屋でいつもラジオを聞き、新聞をくまなく読んでいたからだという。

 11月6日、東京・戸塚にある早大野球部安部寮(現在は西東京市東伏見)。午前6時過ぎに目覚めた安藤は、いつものように1階の応接間で朝刊に目を通した。この日から、自分が歴史に残る快投を演じることになるとは、もちろん、思いもしなかった。

 1面には、大見出しが躍っていた。「総選挙の立候補締め切る」。左下には「安保闘争などで対立」。時代は揺れていた。

 この年1月、岸信介内閣が調印した日米安保条約改定をめぐり、日ごとに反対運動が激化した。6月15日には、全学連主流派が国会に突入し、女子東大生が死亡。学生や労組員などが連日国会を取り巻き、18日には33万人に膨れ上がった。

 混乱の中、19日に新安保条約は自然承認された。それでも、運動の余震は続いていた。

 早大の構内にも「安保反対」の立て看板が並び、授業はたびたび中止になった。

 松井盈と西川昌衛はいつも、看板に埋もれながら新聞を売っていた。2人は前年、運動部の活躍を学生に伝えるために「早稲田スポーツ」という新聞を創刊。「イデオロギーの問題にしてもスポーツにしても、学内には自由な雰囲気があふれていた」。そう振り返る西川は、野球部を担当していた。東京六大学野球は当時、日本スポーツ界のまさに「華」だった。

 この年の秋季リーグは第7週を終え、慶大が8勝2敗、勝ち点4で首位。早大が7勝3敗、勝ち点3で追い、最後の早慶戦に優勝をかけることになった。慶大が勝ち点をあげれば完全優勝。早大は連勝すれば逆転優勝、2勝1敗なら優勝決定戦になる。

 天下分け目の決戦とあって、初日から6万5千人をのみ込んだ神宮球場は、試合開始前から異様な雰囲気に包まれた。

 午後1時32分、宇野秀幸球審の右手が高々と上がって、「早慶6連戦」が始まった。

 慶大監督の前田祐吉は1回戦のマウンドに、4人いる3年生投手の中から左腕・清沢忠彦を送った。

 清沢は岐阜商高時代に4回、甲子園に出場。2年生だった56年は春、夏とも準優勝投手になっている。夏の2回戦では早稲田実高の1年生投手・王貞治に投げ勝った。その時、早稲田実の4番だった徳武定之が、今度は早大の主将を務めている。

 岐阜商で清沢のチームメートだった村瀬栄治と所正美も、早大の先発メンバーに名を連ねる。その一方、57年夏の2回戦で清沢に完封負けした土浦一高の安藤統夫は慶大にいる。

 清沢が言う。「プロからも誘われたが、六大学に進む道しか考えられなかった」。清沢が入学した58年、長嶋茂雄が立大から巨人に入団。プロ野球は国民の一大娯楽への道を歩み始めた。それでも、日本野球界の「華」は、まだ六大学だった。

 早慶戦が初めて行われたのは1…

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