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 丹後半島にある京都府京丹後市弥栄町の「味土野(みどの)」地区。本能寺の変の後、戦国武将・明智光秀の娘で、宮津城主・細川忠興の妻玉(ガラシャ)が隠棲(いんせい)した地と伝わる。だが、今春、これに異論を唱える論文が出され、話題を集めている。隠棲地は、いったいどこだったのか。戦国の世に翻弄(ほんろう)されたガラシャに思いをはせ、味土野を訪ねた。(横山健彦)

 野間基幹集落センター(京丹後市弥栄町野中)から軽乗用車1台がようやく通れるほどの細い道を進むと、5キロほど先に「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた石碑があった。近くの「味土野ガラシャ大滝」から落ちる水音が、静かに響く。

 「女城跡」と呼ばれる山頂付近の屋敷跡。かつて40世帯ほどが暮らしていた地とされる。豪雪などで離村が相次ぎ、現在は3戸だけ。冬には今も、1~2メートルほどの雪が積もる。

 玉は1578(天正6)年、織田信長のすすめで細川忠興と結婚。その後、宮津城へ移った。光秀が1582年、本能寺で主君の織田信長を討ったため、一夜にして「謀反人の娘」に。子どもと引き離され、侍女らとともに深い山を分け入り、14キロほど先の味土野にたどり着いた、と伝わる。急な坂道もあり、決して楽な行程ではない。

 玉がこの地で詠んだとされる歌がある。

 「身を隠す 里は吉野の奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく」

 親を呼ぶカッコウのヒナの声に、宮津に残してきた我が子を思った歌という。

 玉はここで2年近く息を潜めて暮らした後、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになった。深い絶望の中で、何に人生の救いや支え、意義を求めたのか。

 案内してくれた市観光公社弥栄町支部長の梅田肇さん(65)は「味土野での暮らしが、その後の玉の人生観を大きく変えたに違いない」と力を込める。

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 今春、こうした「味土野説」に異論を唱えたのが、丹後郷土資料館資料課長の森島康雄さん(59)。資料館の「調査だより」に論文「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」を発表した。

 森島さんによると、玉が移った先は、江戸時代に編纂(へんさん)された「明智軍記」には「丹波ノ国三戸野」の山里と記されている。また、細川家の公式の歴史書「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」には「丹波之内山中三戸野」とある。いずれも現在の京丹波町水戸あたりという。

 丹波は光秀のかつての所領。水戸の近くには、光秀の丹波攻略で光秀側が焼いた後に再建した玉雲寺や、落城させた須知城がある。玉をかくまう勢力があったと考えられるという。

 現在、水戸周辺には国道9号や京都縦貫自動車道が通る。京都からは直線で30キロほど。山間部は多いが、隠棲地のイメージとはほど遠い。町教育委員会によると、町内には玉に関する伝承は伝わっていない。ただ、同町と南丹市の境にある「観音峠」が、江戸時代のころまで「三戸野峠」と呼ばれていたという。

 一方、「味土野」が注目されるきっかけになったのはドイツ人宣教師ヘルマン・ホイヴェルスが書いた戯曲「細川ガラシア夫人」。1935(昭和10)年、ヘルマンは現地を訪れて地元の伝承を聞き、隠棲地は山深い「味土野」だと確信したという。

 翌年、与謝郡と竹野郡の連合婦人会、連合女子青年団によって石碑が建立された。日中戦争の直前だったことを踏まえ、森島さんは「各地を転戦する夫忠興の留守を守り、最後は人質となるのを拒んで世を去った玉が、貞婦の鑑として顕彰された」と指摘。石碑によって、味土野説が徐々に定着、拡散したとみている。

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 京丹後市の野間基幹集落センターから石碑周辺まで歩くと、上り約1時間半、下り約1時間。ガラシャが通ったとされる古道なら約2時間かかる。一帯には、玉を警護する者たちがいたとされる男城跡や、玉が化粧をする時に使っていたとの伝承がある水場などがある。昨年、宮津高の生徒が東屋も整備し、「ガラシャの里づくり」が進む。

 隠棲地を特定できるような史料はない。それだけに歴史ロマンを追い求める人は後を絶たない。森島さんは「新たな史料で定説が変わったり、裏付けられたりすることもある。そこが歴史学の面白さ」と語った。

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 「天風」(0772・66・0088)は、石臼でひいたそばや山菜、川魚料理などを味わえる。11~15時、17~21時(夜は要予約)。

 「野間亭」(0772・66・0701)は、打ち立てのそばを、自家栽培のわさびをすり下ろして食べられる。11~16時。

 いずれも火曜定休。

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