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 1960年代に「野球王国・千葉」の道を切り開いた2人が対談した。元銚子商エースで、東京オリオンズ(現千葉ロッテ)でも活躍した木樽(きたる)正明さん(73)と、元習志野エースで、監督としても同校を率いた石井好博さん(71)。3時間に及んだ対談では、野球に対する愛情や鋭い洞察力が垣間見えた。=文中一部敬称略、所属球団は当時

 対談は、石井さんが友人を通して木樽さんに連絡を取ったのがきっかけで実現した。10月25日、銚子市内で夕食を共にしながら語り合った。

 木樽さんはプロ、石井さんは高校指導者の道へ進んだこともあり、これまでは球場でたまたま会った時にあいさつを交わす程度だったという。

 石井「千葉の野球が強くなったのは1965年の銚商の甲子園準優勝、あれからです」

 旧千倉町出身の石井さんが習志野に進んだのは、千倉中時代の経験からだ。

 石井「地元では当時負けなしでしたが、県大会で銚子三中に味方の連続エラーでサヨナラ負けした。雪辱するには銚商と戦えるところと考え、叔父の住む船橋から通いました」

 木樽「負けた悔しさは選手を成長させますね」

 木樽さん自らも悔しさを成長へのバネにした。

 木樽「3年春の大会で習高の谷沢(健一=中日)にホームランを打たれ0―1で負けた。高校3年間で唯一打たれた本塁打でした」

 木樽さんがエースの銚子商は65年夏に甲子園準優勝。石井さんがエースの習志野は67年夏に甲子園優勝。「銚子商・習志野時代」の幕開けだった。そして、74年夏に銚子商、75年夏に習志野が甲子園で優勝。「千葉を制する者は全国を制する」とまで言われた。

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 接点がさほどなかった2人だが、1993年のプロ野球ドラフト会議が新たな縁を生んだ。石井さんが監督を務める習志野の福浦和也をロッテが7位で指名したのだ。当時、木樽さんはスカウト部長だった。

 木樽「ありがたかったのは、石井さんが福浦について『木樽さんに全部お任せします』って言ってくれたこと。スカウトはお金(契約金や年俸)の心配がありますから」

 石井「生徒には『プロに行くなら絶対にごねるな。お金は親がもらうもの』と言い含めていました」

 福浦は投手で入団したが、すぐに転機を迎える。

 木樽「2軍監督が『福浦はバッティングがいい。転向させていいか』と言ってきた。『そう見えるなら』と返事をした。2軍打撃コーチが山本功児(巨人、ロッテ)で、彼の下で一つの方向性が見えたのは福浦にとってよかった」

 石井「あの子は手首がとても軟らかい。これ、打者にはとても大事なんです」

 福浦は2001年に首位打者に。15年に1900本に達したが、18年の2千本安打達成まで時間を要した。

 石井「千九百何本で終わるかと心配になり、小川(淳司、現ヤクルトGM)に『福浦がクビになったらヤクルトで雇って(達成させて)くれないか』って頼んだこともあるんですよ」

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 2人にも「あの一球」があった。木樽さんは65年夏の甲子園決勝、三池工(福岡)戦。0―0の七回裏2死一、二塁で、8番打者を迎えた。

 木樽「その前の2打席、カーブで連続三振を取っていた。打たれる打者じゃない。でもこの回は甘く入ったんだね。カンチャン(=野手の間に落ちる)のレフト前ヒットを打たれた」

 この一打で均衡が崩れた。左翼手だった2学年下で海匝漁協(旭市)組合長の土屋青市さん(72)は「いいところを見せようとお手玉した」と今も悔やむ。

 木樽「『一生懸命やったんだろ、それでいいじゃないか』って言うんだけど。青市は十字架を背負っているんだな」

 石井さんの一球は監督として臨み、PL学園(大阪)に敗れた87年夏の甲子園準々決勝だ。四回無死一、二塁で相手投手は橋本清(巨人、福岡ダイエー)。フルカウントから重盗に出たが、打者が見逃し三振、二塁走者も三塁タッチアウトに。

 石井「ベンチからは四球に見えた。二塁走者もそう見えたから力を抜いて、アウトになった」

 試合から二十数年後。ロッテ戦の観戦を終えた石井さんは、ラジオの解説で球場にいた橋本に偶然会う。

 石井「『あのとき投げていてあんた、どうだ』って聞いたら、橋本は『はい、ボールでした』って。『あれで私は巨人に入りました』って言ってた(笑)」

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 話は指導者論へ。石井さんは教壇に立ちながら野球部の監督を務めた。

 石井「野球を終えてから午前2時、3時まで、次の日の授業の下調べ。でも好きでやってるんです。教員でないと選手の学校での様子が見えないし、生活指導もできませんから」

 甲子園を目指す生徒たちでも、グラウンドが使えない雨の日は喜んだ。

 石井「休みたくて、朝早くグラウンドに来て水をまく者がいた。『ここにまけば監督が入れない』と、私が歩くところをぐちゃぐちゃにされたこともありました(笑)」

 石井さんは一線を退いたが、木樽さんは銚子市でプロ野球OBによる小中学生向けの「黒潮野球教室」を今も続ける。篠塚和典(銚子商から巨人)、石毛宏典(市銚子から西武ほか)らが参加。昨年、銚子・旭・匝瑳の高校生向けの「3市交流野球教室」も始めた。

 木樽「篠塚は高校生を指導できるようになる研修会を受けていない。『巨人で活躍したお前の方が身近なんだから、早く資格を取れ』って言っています」

 中学1校ではチームが組めないような少子化の現状に危機感を持つ。

 木樽「銚子商がまた強くなって習志野と盛り上げて、それを見た子どもたちが『僕も野球をやる』っていう方向に持っていきたい」

 石井「公立同士、頑張らないとね」

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 木樽正明さんと石井好博さんはそれぞれ「千葉野球界の顔」でありながら、プロとアマチュアという住む世界が違ったこともあり、これまでじっくり話を交わす場面はなかったという。

 今回の「初対談」は、石井さんと私の共通の友人である千葉テレビ放送幹部から私への1本の電話だった。「石井さんを銚子に連れて行くから、木樽さんと引き合わせてよ」

 木樽さんに伝えると「いいねえ、ぜひやりましょう」と快諾。銚子市内の小料理屋に席を設けた。ギャラリーは千葉テレビ側3人と私の計4人。2人の対談は野球という共通項だけで十分で、冒頭から盛り上がった。

 かつての監督による鉄拳指導の思い出話や、2人が指導した村田兆治(ロッテ)や掛布雅之(習志野→阪神)といったスター選手のエピソードが次々飛び出し、私のような野球好きには「垂涎(すいぜん)もの」の話題に時間は瞬く間に過ぎた。別れ際「また会いましょう」と2人。「千葉野球史」としても貴重な対談となった。(高木潔)

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 木樽正明 1947年、銚子市生まれ。銚子商エースで65年夏の甲子園準優勝。プロ野球・東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入り、71年にパ・リーグ最多勝(24勝)、通算112勝。ロッテの2軍監督やスカウト部長を歴任、現在は銚子市政アドバイザー。近著に「野球の力~銚子発~」(銚子スポーツタウン)。

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 石井好博 1949年、千倉町(現南房総市)生まれ。習志野のエースとして67年夏の甲子園に出場し、千葉県勢初の全国優勝。早大を経て72年に母校の社会科教諭になり、以後26年間、野球部の監督を務めた。春夏通算で甲子園出場6回。75年夏の甲子園ではエース小川淳司(ヤクルト)を擁して優勝した。夏の大会でエースと母校監督として優勝したのは石井氏のみ。

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