蝦夷集団結束の象徴? 赤い甕に迫る特別展 北上博物館

溝口太郎
[PR]

 岩手県北上地方の遺跡で集中的に発見される赤く彩色された蝦夷(えみし)の土器がある。北上市立博物館で開催中の特別展は、この独特の遺物に焦点を当てている。使途不明のこれらの土器は、東北の蝦夷集団が結束して戦う象徴として作られたのではないか――。出土物の分析から、従来の歴史観に一石を投じる内容となっている。

 口の部分に赤い線模様があり、球形の胴体が真っ赤に塗りつぶされた土器「赤彩球胴甕(せきさいきゅうどうがめ)」。企画展は、8世紀後半~9世紀初めの蝦夷の遺跡から出土する約100点を集め、その歴史的背景の考察を試みた。長年発掘に携わった同館の杉本良館長がライフワークとして取り組んできた研究の集大成でもある。

 着目したのは774年に始まった「38年戦争」だ。古代の東北地方の蝦夷が、坂上田村麻呂らが率いる中央政権の軍勢と争い敗れたとされる。杉本館長によると、赤い甕(かめ)は北は青森から南は東京まで各地から出土するが、全体の9割が北上市の和賀川流域北側の遺跡に集中。多くは8世紀後半ごろに突如現れた集落からの出土だという。

 付近には江釣子古墳群と呼ばれる8世紀ごろの蝦夷の古墳遺跡があり、西アジアのガラス玉やロシア産の錫製品も出土している。杉本館長は「中央政権が進出圧力を増すにつれ、栗原(宮城県)や胆沢地方の蝦夷が、要衝だった和賀川周辺に移転してきた可能性もある。赤彩球胴甕は蝦夷共通の祭祀(さいし)道具だった赤い土器が基になっており、有力な和賀川周辺の蝦夷集団が主導し結束を強調するため作ったのでは」とみる。

 文献史学では奥州市の胆沢川周辺の蝦夷集団が中心となって戦ったとされてきた。しかし、胆沢川周辺では赤彩球胴甕はほとんど出土していないといい「胆沢川周辺は前線の戦場で、最強の蝦夷集団は絶対防衛線だった和賀川にいたのではないか」と推測する。

 中央政府に敗れて服従したとされる蝦夷だが、赤彩球胴甕は、坂上田村麻呂が9世紀初めに造営した志波城(盛岡市)外郭や東京都多摩市の遺跡などからも出土し、志波城が廃止された後の9世紀前半の蝦夷の遺跡からも出土している。杉本館長は「奴隷として服従したなら風習や文化は捨てさせられたはず。蝦夷は38年戦争を生き残り、技術や文化を発展させたと考えられる。考古学の立場から見れば、従来の歴史とは違う事実も見えてくるということを伝えたい」と話している。企画展「蝦夷の赤い甕」は来年3月7日まで。(溝口太郎)