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 空襲や戦災、戦争遺跡について調査している九州・山口の市民団体や個人が、調査の成果を報告して情報交換しあう集会が21日、北九州市八幡東区で開かれた。2014年に始まり、毎年、開催地を移して開いている。今年はかつての官営八幡製鉄所の中心だった東田地区に立つ、いのちのたび博物館の講堂を会場に選んだ。

 主催者を代表して「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の工藤洋三さん(山口県周南市)があいさつ。米軍の長距離爆撃機B29が初めて日本本土を空襲した際、目標が東田地区の製鉄所施設だったことを紹介し「歴史的な場所での会となった」と話した。

 長年、米軍の公文書の解析を通じて日本への空襲や原爆投下の実態解明に取り組んできた工藤さんは、終戦間際の沖縄を拠点にした米軍第28写真偵察戦隊の活動について報告した。

 作戦の日付や目標、詳細などが記された「作戦任務最終報告書」を分析し、作戦概要の一覧表をつくった。工藤さんによると、偵察戦隊の目的は米軍の南九州上陸への準備で、一覧表からは南九州を中心に北部九州、四国や本州の飛行場、九州各地の駅などの撮影で連日、飛行していた様子がうかがえる。

 米国立公文書館は撮影機が撮った写真のネガフィルムを保管しており、この一覧表をフィルムの検索に役立てることが出来るのではという。

 北九州市からは、2022年度に市が開館を予定している平和資料館(仮称)について、田爪康隆担当課長が説明した。

 平和資料館は、長崎に投下された原爆の最初の目標地点でもあった巨大な兵器工場、小倉陸軍造兵廠(しょう)の跡地の一角に建てられる。展示室を入ってすぐの場所には、米国立公文書館から入手した原爆投下命令書などを掲示する。

 また、映像や音響を活用した360度シアターでは、1945年8月9日に原爆を搭載した米軍の爆撃機が小倉上空を飛来した後、長崎に向かった出来事を追体験する展示内容を用意すると紹介した。

 「北九州市の文化財を守る会」の前園広幸さんは、周防灘に面した北九州市門司区の蕪崎(かぶらさき)に残る旧日本陸軍海上挺進(ていしん)隊の基地遺構の調査について話した。

 海上挺進隊は、小舟に爆雷を載せて高速で敵艦に肉薄する特攻兵器の部隊だ。10基の格納庫が残り、コンクリートの擁壁や基礎も見られることを現地調査時の写真を交えて説明した。

 一方で、遺構がある一帯は現在、採石場になっており「かろうじて最低限のものが残されている」と保存状況の危うさを訴えた。

 福岡市中央区の元中学教諭、相戸力さんは終戦近くになって筑紫野市山家に旧日本軍が築いた「山家地下壕(ごう)」について報告した。

 関連資料を集めて読み込んだところ、1944年夏ごろから準備が始まり、翌45年1月に掘削工事が始まったと考えられるという。

 また、建設には筑豊の各炭鉱から動員されたほか、山家の近隣地域にも約千人の工事要員の要請があったといった記述に行き当たったと発表した。

 大分県宇佐市の「豊の国宇佐市塾」からは織田祐輔さんが、米軍戦術偵察飛行隊に関する公文書への調査について報告した。

 終戦間際に朝地駅(豊後大野市)や豊後森駅(玖珠町)であった米軍機による機銃掃射については、艦上戦闘機グラマンによるものだとの証言が残っている。だが、空襲があった時期には米軍の空母は九州沖にいなかった。

 では、どのような米軍機が空襲をしたのか。織田さんは沖縄にいた部隊の可能性が高いと考え、関連する米公文書を調べた。行き当たったのは、沖縄県の伊江島に展開していた第82と第110、二つの戦術偵察飛行隊だった。

 この飛行隊が用いたのは戦闘機の機体後部にカメラを搭載した写真偵察機で、低空で撮影しながら標的に遭遇した場合は機銃掃射もした。

 公文書の記録から、両駅の機銃掃射とも第82戦術偵察飛行隊によるものと判明。宇佐市上空で日本軍機が墜落した空中戦も同じ飛行隊によるものだった。

 また、第110戦術偵察飛行隊が西小林駅(宮崎県小林市)で機銃掃射していたことも分かった。

 このほかの複数の場所でも機銃掃射をしたとの記録も見られたが、それを裏付ける日本側の資料が乏しいという。織田さんは「大分県内に限っても、書かれてこなかった空襲がかなりあると分かった」と話した。

 今後も調査を続け、沖縄にいた米軍海兵隊や陸軍航空隊による九州への空襲の全貌(ぜんぼう)を明らかにすることを目指している。

 長崎県松浦市の永益宗孝さんは、宮崎県延岡市の沖に浮かぶ島野浦島の空襲について報告した。米軍機の機銃掃射により子どもらが亡くなった空襲で、永益さんは島民がまとめた体験談に米軍資料を加えて全体像の把握に取り組んだ。

 米軍の資料から、空襲をしたのは哨戒任務のため硫黄島(東京都)から飛来した米海軍の哨戒爆撃機だと分かった。四国の南西端から豊後水道を横切り、九州東岸沖を南西に進んだ。島野浦島の港に監視船を見つけて機銃掃射や爆撃をしたと記録されている。

 永益さんは発表資料に「日本側と米国側の資料双方を検討することにより、より正確な記録を残していくことが必要」と記した。「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」の高谷和生さんは、1945年8月10日の熊本大空襲に関する写真が新たに18枚見つかったと報告した。さいたま市の元商社員、今吉孝夫さんが所有する、沖縄に駐留していた米軍の第3爆撃機群団の写真約千枚の中から発見されたという。

 高谷さんによると、今吉さんは鹿児島県の旧制加治木中学で空襲に遭い、級友を失った。商社員となって米国に駐在すると米軍の部隊報告書や証言を集めた。やがて、父が群団の乗員だった米国人と知り合い、昨年3月に米国立公文書館が所蔵する群団の写真の提供を受けたという。

 今吉さんは「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の工藤洋三さんと共同で、公文書館の部隊戦闘報告書の記録と写真を照合する調査を始めた。

 写真は南九州などへの空襲に関わるもので、高谷さんも昨年8月から調査に加わった。このうち、熊本大空襲に関連した写真が熊本市内のどの地点を爆撃した際ものなのか、特定作業を進めた。

 その結果「桜町・市公会堂・新市街」「熊本駅・機関庫・旧春日校」「旧岡村鉄工所・本山2丁目」などを特定したという。

 写真は、投弾の様子を乗員が手持ちのカメラで撮影したものと思われる。落下傘付きの焼夷(しょうい)弾が落ちていく様子や、爆撃直後の大きな煙が建物からあがっている様子を写したものもある。

 特定作業は、NPO法人「熊本まちなみトラスト」などと協力したという。高谷さんは、写真が低空で撮影され、当時の街並みをはっきりと写していることから「現在のその場所に立って、75年前の当時と見比べることが出来るような写真だという意見も多く聞いた」と話した。

 鹿児島県鹿屋市平和学習ガイド・調査員の小手川清隆さんは、終戦から約3カ月後に鹿屋市郷之原地区で起きた弾薬集積所の爆発事故について報告した。

 小手川さんらは、爆発事故のことを3年半前の郷之原地区での戦争体験聞き取り調査で初めて知った。住民の証言によると、1945年11月8日、地区内の山に囲まれた場所にあった集積所で爆発が起きて約60戸が全焼。2人が亡くなった事故だったという。

 その後、資料を探したが、当時の新聞以外は見つからなかった。最近になり、鹿屋市が米国立公文書館から資料を取り寄せて、ようやく全貌(ぜんぼう)が明らかになった。

 資料の中には爆発事故の調査報告書があり、詳細がつづられていた。

 集積所は約800平方メートルで、爆弾やロケット弾、パラシュート照明弾など226・7トンの武器弾薬が集められていた。当日は、米海軍の監督下で作業していた日本人が、照明弾を持ち上げて元に戻したところ発火。ほかの照明弾へと引火して燃え広がった。

 爆発事故による被害は、全焼69戸、死者1人、避難民(焼け出された人)344人。翌日も片付け作業中に不発弾が爆発して、1人が死亡、2人がけがをしたと報告された。

 焼け出された住民は、十分な補償も受けられないままだったという。小手川さんは、聞き取り調査に応じた住民の「戦時中の空襲よりも、戦後の事故での方が大きな被害を受けた」という言葉が強く印象に残っているという。(吉田啓)

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