拡大する写真・図版甲子園出場を決め、選手たちと喜ぶ木内幸男監督=08年

 高校野球の取手二や常総学院(ともに茨城)で長く監督を務め、春夏の甲子園で優勝経験のある木内幸男(きうち・ゆきお)さんが24日、死去した。89歳だった。

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 選手をその気にさせ、とにかく勝利にこだわった。

 2003年1月6日。常総学院が、この年の初練習を始める前に、木内監督は選手を集め、切り出した。「今年の夏で、俺は辞める。次の監督に強いチームを渡すために、今から1年主体に切り替えるか、このまま最上級生が中心のチームで戦うか……」

 突然のことに、当時二塁手のレギュラーだった私を含め、選手たちは何も言えない。すると、続けて言った。「最後だから、本気で勝てるチームをめざすべ」

 持論は「甲子園は『行きたい』ではなく『行くんだ』と思え。勝てる雰囲気ができたチームが勝つ」。この夏、常総学院では初、自身は1984年の取手二以来、2度目となる夏の甲子園を制した。

拡大する写真・図版夏の全国選手権で優勝を決めた直後、主将の松林康徳さん(右)からウィニングボールを受け取る木内幸男さん=2003年

 練習中は「慈善で野球はやらない」を口癖に、バックネット裏からマイクで指示を飛ばす。表情は、いつも険しい。例年約70人いる部員のうち、ノックに入れるのは投手を除き、多くても各ポジション3人まで。レギュラーといえども、ひとたび平凡なミスをすれば、その座を奪われる。

 練習試合の間は、1人でずっと選手の動きをつぶやいていた。「このバッターは、さっき直球を打ったから、次は変化球を待ってるよ。ほれ見ろ、直球を見逃した」。近くにいる書記係の控え部員が、監督の言葉を黒板に書き写し、ミーティングに生かす。これを繰り返すことで、選手たちは自分の課題や役割をわきまえていった。

 「20年前の戦術が、今も通用する」と話したことがある。一塁手の守備力でしか防ぎようがない、無死または1死一、三塁からのセーフティースクイズが典型的だ。基本的にリードしていれば手堅く、負けている展開なら大胆に。世間から「木内マジック」と呼ばれた采配は、選手の適性や試合展開、グラウンドの状況、相手の特徴などを加味し、瞬時に繰り出された。

 だが晩年は、筋力トレーニングを積んだ選手が並ぶ「力野球」に苦しんだ。選手の性格も、時代とともに変わった。「今の選手は、バントのサインを出したら『なんで?』と思うらしい。意思の疎通がうまくいかなくなった」。07年秋に常総学院の監督に復帰したが、11年夏をもって再び引退。「球場で死ぬ」つもりだったが、これを理由に後進に譲ることを決心した。

拡大する写真・図版取手二高時代の木内幸男さん

 土浦一高を卒業後、母校の指導者になった。「甲子園に行けるような学校では、育っていないから」と、当時は後に「名将」と呼ばれる自分を想像すらしなかった。ところが取手二に移り、77年に甲子園初出場を果たすと、その魅力に取りつかれていく。「ここが教育に一番いい。やんちゃだった子どもたちが、みんな優等生になっちゃう。監督と選手の間での卒業式の場として最高」

 せっかちな性格のため、練習の合間の時間を短くするように、常に求める。例えばノックから打撃練習に移るとき、選手たちはボールの準備やネット張りなど、人手が足りていない仕事を探す。その姿勢を体に染みこませていれば、「野球部を引退して、社会に出て行っても通用する」。教職は持っていないが、自分なりの考えを持った「教育者」でもあった。(井上翔太