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常総学院元監督の木内幸男さん(89)が24日、亡くなった。

 職業監督。教員でもなくほかに仕事を持っているわけでもなかった。高校野球の世界では、珍しい存在だった。

 1984年夏、取手二を全国制覇に導いた木内幸男さんは、その秋から開校2年目の常総学院に移籍し、時に「優勝請負人」とも評された。「3年から5年で甲子園に行かないと、選手が集まってこなくなる」と話し、3年以内の甲子園出場を目指していた。新設校には無い伝統の壁を乗り越えたかった。

 常総学院の甲子園初出場は、思わぬ形で転がり込んできた。87年春センバツ。不祥事で千葉県の高校が辞退したため、開幕直前に代打出場が決まった。この時、木内さんは、甲子園での所作をチームに伝えた。

 現地入り後の紅白試合では、球場への入り方から練習した。ベンチに持ち込む荷物は極力少なくする。前の試合が終わったらすぐにグラウンドに入り、ベンチ脇に荷物をまとめて置いて、すぐキャッチボールを始める。甲子園では、スムーズな進行を求められる。その雰囲気にのまれないように、助言が続いた。

 紅白試合では、三振した選手が天を仰いで悔しそうな表情を見せると、「何やってんだ。三振したら頭をぺこっと下げて、まっすぐベンチに帰ってこい」。ヘッドスライディングで、口に入った砂を吐き出した選手には、「何のためにタオルを持ってんだ。それでこそっとぬぐえ。つばなんて吐いてテレビに映ったら、何を言われるか分かんねえから」。

 当時、茨城県勢チームは神戸市内のホテルを定宿にしていたが、この時は千葉県のチームが予約していた兵庫県宝塚市内の旅館に宿泊した。突然のキャンセルでは旅館も迷惑だろうという、配慮だった。木内さんは、練習の合間に選手たちを神戸のホテルに連れて行って食事会を開いた。「夏に来たらここに泊まるから」。貸し切りにするフロアの各部屋を見学させ、選手たちに夏のイメージをすりこんだ。

 センバツの試合は0―4で明石(兵庫)に初戦敗退した。だがこの5カ月後の夏、前評判がそれほどでもなかった常総学院が快進撃。決勝でPL学園(大阪)に敗れたものの、夏初出場で準優勝を果たした。小技を駆使して好投手を次々と攻略し、選手起用もピタリとはまった戦いぶりは「木内マジック」「常総旋風」「ミラクル常総」などと評された。

 木内さんはこう語っていた。「甲子園くらい良い所はないよ。遅延行為なんかなくて、俺らみたいな気が短いのは大好き。子どもらも言うことをよくきくようになるし、プライドができる。いい教育になるよ」

 茨城から水戸商、藤代、常総学院の3校が出場した2001年の春センバツ。出場が決まった後、常総学院の専用グラウンドに、トラック4台分の土が搬入された。甲子園を想定してグラウンドの土を軟らかくするためだ。いつもの硬いグラウンドに比べると、打球のスピードが落ちる。より実戦に近い練習をするのが狙いだった。

 「甲子園で勝つことを考えると、こういうことも必要になる」。決勝で仙台育英(宮城)を7―6で破りセンバツ初優勝。2度目の全国制覇を遂げた。

 「子どもたちが力以上のものを出して勝ち上がり、甲子園に行く。それを取手二で覚えた」。力以上のものを出すために、最も必要なことは監督と選手の信頼関係だという。

 木内さんは甲子園について「1度目は修学旅行、2度目で校歌が聴きたくなって、3度目で周りが見えてくる」と話していた。春夏合わせて出場22回、40勝19敗。まさに高校野球一筋の人生だった。(小松重則)

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