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 「おじいちゃん、どこで死んだのかも分からんで。かわいそうに」

 河野(旧姓・安原)篤子さん(79)=大阪市住之江区=は4歳の時、広島で原爆に遭った。体験を話すたび、父・良一さんのことを思い浮かべてきた。75年前のあの日から行方不明になった父の最期を確かめてくれたのは、孫だった。

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 篤子さんは太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、広島で生まれた。

 45(昭和20)年8月6日朝、広島市西観音町(現・広島市西区)の友達の家で、当時1歳の弟と一緒に遊んでいた。

 「ドーン」という轟音(ごうおん)に耳をふさがれた。爆心地から1・7キロ。その瞬間から記憶は途切れている。気がついたときは大きな柱の下敷きになっていた。母や救援に駆けつけた人たちが助け出してくれた。

 川には皮膚がただれた遺体が流れ、町は火の海だった。幼い目にも、その惨状は焼き付いている。

 1週間ほどたった時、自宅周辺の焼け跡で、子どもの遺体が見つかった。真っ黒に焦げ、性別も分からない。それでも、小さな背丈、わずかに残った水玉模様の服でわかった。

 「弟でした」。篤子さんの目に涙があふれた。

 消防士だった父の良一さんは行方不明になった。「帰宅途中に被爆死した」と聞かされた。約1年後、母の再婚をきっかけに大阪へ移り住む。物心ついてから、原爆のことを聞くと、母は「そんなもん覚えとらん」と口を閉ざした。

 たった1枚しかない父と弟の遺影を、篤子さんは財布に入れて肌身離さず持ち歩いてきた。

 10年前からは写真を額に入れ、自宅に立てた。毎日お茶や酒を供え、弔ってきた。

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 「おじいちゃんが亡くなった場所わかったって」

 2年前の5月、奈良県で暮らす娘が篤子さんに電話をかけてきた。

 調べたのは篤子さんの孫で奈良市消防局の消防士、大島成智(あきのり)さん(31)だ。広島市公文書館などで良一さんの資料を探したという。後日、コピーが篤子さんのもとに郵送されてきた。

 被爆当時の消防活動や被害状況をまとめた「原爆広島消防史」によると、良一さんは西警察署分遣隊の消防隊員として勤務していた。庁舎は爆心地からわずか150メートルしか離れておらず、勤務していた全隊員9人が殉職したという。

 篤子さんはそれまで、「父は帰宅途中に亡くなった」と信じて疑わなかった。「でも、殉職とわかって心のつかえが取れた気がした」。孫が送ってくれた資料は封筒に入れて保管し、良一さんの遺影に向かって報告した。

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 大島さんは広島に行ってまで曽祖父の足取りを探った。祖母の篤子さんの話を聞いていて、腑(ふ)に落ちない点があったからだ。

 広島に原爆が投下されたのは午前8時15分とされる。今もそうだが、消防職員の宿直勤務は午前8~9時ごろまでがふつうだ。自身の経験からも、「帰宅途中で被爆死した」という話に違和感を覚えた。

 大島さんは今、思う。「自分は被爆3世。ちゃんと原爆や戦争のことを知らないといけない」

 篤子さんは「孫がいなかったら、父の最期のことは死ぬまでわからなかったかもしれない。手を合わせる場所があって本当に良かった」と話す。

 良一さんが亡くなった場所を今年5月に訪ねるつもりだったが、新型コロナウイルスの影響でやむなく延期した。いつか、家族みんなで手を合わせに行きたいと願っている。

 篤子さんは被爆75年の今年、朝日新聞が被爆者に依頼したアンケートの回答にこうつづった。

 孫が父のあとをついで調べてくれた(中略)感謝しています(新垣卓也)

 75年前の戦争を体験した人々は高齢で年々少なくなってきている。後世に生きる私たちに、伝えておきたい言葉とは――。

(随時掲載します)

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