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 ベトナム戦争終結後に国を脱出したインドシナ難民や、紛争国から周辺国に逃れて日本にやってきた第三国定住難民。日本語教育や介護など、難民を取り巻く生活環境はいまどうなっているのか。

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 「日本語が不十分な親が多いので、子どもの勉強を見てあげられない」

 アジア福祉教育財団が11月に東京都内で開いた「定住難民とのつどい」で、カンボジアの女性はこう悩みを打ち明けた。

 つどいは難民への理解を深めてもらう目的で1982年に始まり、今年で41回目。これまでは各民族が伝統舞踊を披露してきたが、今年はコロナ禍で意見交換に切り替えた。

 日本語については財団の難民事業本部が国の委託を受け、来日後に半年間の学習機会を提供しているが、それだけで行政書類などを理解するのは難しい。半年間の学習期間を1年に延ばしてほしいとの声もあった。この女性は金銭的な悩みも打ち明けた。「塾に通うお金もないので、各教育委員会が日本語を学ぶ場を用意してくれたら」

 難民の高齢化に伴う課題もある。45年前のベトナム戦争終結後、政変が起きたベトナム、ラオス、カンボジアから船や陸路でたどり着いたインドシナ難民は60歳を超えた人も多く、介護や年金の問題に直面している。ミャンマーから来たロヒンギャの男性は墓地の問題を口にした。「我々はイスラム教徒だが日本では少数派。墓地を持つのは難しいので、手助けしてほしい」

 インドシナ難民と呼ばれ、定住した人たちは全国に約1万人いるとされ、ベトナムが76%、カンボジアとラオスがそれぞれ12%。うち1665人が日本国籍を取得した。受け入れは78年に始まり、2005年に終了した。第三国定住は10~19年に50家族196人を受け入れている。

 日本の難民認定をめぐっては、厳格すぎるとの指摘もあり、入管施設の長期収容などが問題になっている。19年の難民申請は1万375人で、国が認定したのは81人。内訳は難民認定が44人、人道配慮で認めたのが37人だった。出入国在留管理庁は「様々な意見があることは受け止めているが、個別に判断した結果だ」と説明している。(西村奈緒美)

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 私たちにとってなじみの薄い難民の人たち。その来歴や日本での暮らしぶりについて、聞いた。

 ラオス出身で来日42年目の新岡史浩(旧名レック・シンカムタン)さん(74)は日本国籍を持つ。

 1975年の政変で社会主義体制に変わったラオスから逃れるため、79年7月、ポリタンクを体に縛り付けてメコン川を渡った。行き先は対岸のタイ。妻と子どもを呼び寄せ、家族4人で日本を目指した。「日本は同じアジア。肌の色も、髪の毛の色も同じだから、欧米より溶け込めると思った」と振り返る。

 中小企業で正社員の職を得たが5年後に倒産。3回転職し、現在は通訳や難民相談員として働いている。2人の子どもは日本人と結婚して孫もいるが、妻は日本語の読み書きが苦手で、新岡さんが助けている。

 新岡さんの今の悩みは老後のこと。「介護施設で寂しく死ぬのは嫌。ラオスで親しい人たちに囲まれながら過ごし、ラオスの地に埋葬されたい」と話す。

 ミャンマー人で来日4年目の女性(29)は、マレーシアの難民キャンプで6年過ごし、2017年に夫(38)と日本に来た第三国定住難民だ。最初の壁は日本語だった。「すごく難しい言語」。今も仕事が終わった後や週末は勉強に励んでいる。ユニクロで準社員として週5日働き、接客もこなすが、漢字を理解するのは時間がかかるという。先月、「難しい漢字にはフリガナをつけてほしい」と会社に要望した。

 もっぱらの心配事は災害時の対応だ。昨年の台風では「危険を感じたら逃げて下さい」と言われたがニュースを理解できず、避難所に行くタイミングがわからなかった。「命に関わることはやさしい日本語で知らせてほしい」と語った。

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