[PR]

 木内マジック――。先月、89歳で亡くなった木内幸男元監督の采配は、メディアを中心にこう表現された。だが、2003年夏の甲子園優勝チームで選手として教えを受けた記者(34)は、この言葉に違和感を覚える。理詰めで考え尽くされた戦術や選手の起用法の一端をご紹介したい。

 04年春、常総学院野球部の謝恩会。その式次第の隅っこに描かれていた挿絵に、木内さんの目が留まった。「これ、井上だな」

拡大する写真・図版木内監督が「これ、井上だな」と言った挿絵。サインは、プロ野球の近鉄(当時)に進んだ坂克彦さんのもの

 低く構えて打球を待つ内野手のイラスト。この姿勢が、二塁手のレギュラーだった記者に似ていたらしい。そんな細かな姿形まで覚えているのか、と驚かされた。

平野選手を「市村」と呼ぶ

 教員免許を持たない職業監督だった木内さんは、校舎に現れることはなく、野球部のグラウンドでしか会わなかった。制服姿で木内さんにあいさつしても、「誰?」という顔をされることもあった。部員たちは練習着の背中に、油性ペンで、でかでかと名字を書いた。木内さんに名前を覚えてもらうために。

 今振り返ると、木内さんは、選手のことを打撃や投球フォームなどで記憶していたのだと思う。名前より姿の方が、強く残る。

 たとえば記者の同級生に、平野直樹という選手がいた。左利きで俊足の彼は、下級生の頃、木内さんからなぜか「市村」と呼ばれていた。

 最初は木内さん以外の全員が、ぽかん。コーチが「昔、平野に似た選手がいたらしい」と気付いた。次からは「市村!」の呼びかけに、「はい!」と平野がちゃんと返事をするようになった。ちなみに彼は、練習試合に出ていったんベンチに退いた後、選手が足りなくなり、「市村」として再出場したことがある。

拡大する写真・図版全国制覇を喜ぶ常総学院監督時代の木内幸男さんと選手たち。左から2番目が井上記者=2003年8月23日

勘ピューター采配と怒られた記憶

 木内さんは自らの采配を「カンピューター」と言っていた。「勘+コンピューター」という意味らしい。

 練習中は選手の動き一つひとつを見て、特徴を把握し、コンピューターのように蓄積していた。作戦は選手が得意なことと、相手が嫌がることを掛け合わせて、繰り出した。が、どうにもならないことも。ときに、破れかぶれのような代打策に出た。蓄積した情報で対応できないときは、勘に頼った。

 練習は、実戦形式が多かった。バックネット裏でマイクを手に見ている木内さんは、紅白戦で点差が開いて最終回を迎えると「自由に打順を組み替えろ。相手チームから借りてもいいぞ」。走者二塁から始めるケース打撃では、本塁打を打つと「お前の練習じゃねえんだ!」と怒られる選手もいた。

 記者も含めて、選手は基本的に、怒られた記憶しかないと思う。

拡大する写真・図版第85回大会で優勝した後、木内幸男さん(前列中央)を囲んで記念撮影をする常総学院の選手ら=2003年8月23日

 「二度と試合で使わない」「もう練習に来なくていい」などと、何度言われたことか。だが翌日には、何事もなかったかのように練習に参加することが大切。切り替えが早い性格なのか、腐ってしまうのか。そこまで木内さんは見ていた。

 2017年秋、翌年夏の高校野球100回大会に関する企画取材で、自宅にお邪魔した。「お前、梨が好きだったな。台所にあるから、勝手にむいて、食べていいぞ」。なんでそんなこと知っているんだ……と、きょとんとしていたら、「以前うちに来たとき、俺の分まで食べてただろ。監督ってのは、そういうところを見てるんだよ」。

 おお、当時86歳。だがカンピューターは健在だった。言われた通りに梨の皮をむき、皿に盛り付けたら、小言が飛んできた。

 「勝手知ったるなんとやらだな! ワッハッハ!」(井上翔太