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 1941年12月8日、旧日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。香川県善通寺市の金清道保さん(91)は当時12歳。実感がわかなかった戦争にやがて巻き込まれ、4年後の敗戦は駆逐艦の乗組員として迎えた。近年、戦時中の体験を語り継いでいる。戦争が長引いていれば、特攻兵器に乗って戦死していたかも知れないと悟ったのがきっかけだ。

 79年前。金清さんは善通寺市の国民学校に通っていた。陸軍の技術職だった父や母は満州(現・中国東北部)へ渡り、祖父と暮らしていた。米英との戦争が始まったと聞き、「えらいことになった」とは思ったものの、まだ遠い世界の出来事と考えていた。

 3年後、土浦海軍航空隊の予科練習生として海軍電測学校(神奈川県藤沢市)へ入学した。旧制丸亀中学で学んでいたが、先生から「うちのクラスから誰も予科練を受けないのは困る」と頼まれ、受験した。敵艦や敵機を察知する電波探知機の使い方を学び、45年春に卒業。駆逐艦「樫(かし)」の乗組員に命じられた。

 樫は広島県の呉港や近くの倉橋島で訓練を重ねていた。探知機の操作だけでなく、弾薬を運ばされた。

 5月、上空からサーッという音が聞こえた。先輩にたずねると、爆弾が落ちる音だと教えられた。隣で停泊中の僚艦に落ちた。米軍機の空襲だった。7月には駆逐艦近くの桟橋付近に爆弾が落ち、乗組員らが死んだ。戦争の怖さを知った。

 8月6日の朝も忘れられない。午前8時ごろ、米軍の爆撃機B29が広島方面へ飛んでいくのが目に入った。まもなく、ピカッと光り、爆音が耳をつんざいた。広島の空に巨大なキノコ雲が立ち上るのが見えた。原爆投下だった。

 8月15日、戦争は終わった。16歳。また学校で勉強したいと思った。

 善通寺市に帰ったが、満州の家族の消息は分からなかった。「天涯孤独かもしれない」と覚悟し、学費をためようと考えていたところ、乗船していた樫が大陸や南方からの引き揚げ船に使われると知った。「家族に会えるかもしれない」。再び船に戻った。

 樫が向かったのはフィリピンや台湾だった。港では骨と皮だけにやせこけた大勢の元日本兵が待っていた。日の丸をつけた船が着くと、復員者らはみな泣きだした。自分も涙がこぼれた。「どれだけひどい飢えだったか。戦争の恐ろしさを感じた」

 引き揚げ業務に約1年間携わり、旧制中学に復学した。母や妹たちは無事家に戻ってきたが、父の姿はなかった。シベリアに抑留され、病死したと聞いた。

 金清さんは学校を出た後、逓信省に入り、電話回線のメンテナンスの仕事に就いた。後身のNTTで定年まで働いた。仕事に追われ、戦争をじっくり振り返ることはなかった。

 転機になったのは退職後に訪れた樫の元乗組員の集まりだった。ふと目にした乗組員名簿の自分の名前の横に「回天」とあった。

 回天は一人乗りの特攻兵器で、爆弾を積んで敵船に体当たりする「人間魚雷」だ。終戦間際、樫に載せるための工事をしていたが、搭載前に戦争が終わった。誰が乗るとは上官から聞かされていなかった。

 戦争が続いていたら、自分が乗せられたのだろうか。「とんでもないことをさせられるところだった。希望もしていないのに理不尽だ」。怒りがわいた。

 それから平和の大切さを訴えようと、地域の学校で戦争体験を語り始めた。戦争の記憶を伝える「昭和館」(東京都)にも体験を語った動画を提供した。

 多感な少年期に戦争が起き、軍艦で過ごした。「お国のためと言われて乗せられた。そんなことがない平和な日々が続いて欲しい」

 新年には、山口県周南市の大津島にある「周南市回天記念館」を訪れたいと考えている。運命をともにしたかも知れない回天のことをもっと知りたいと思う。(木下広大)