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 太平洋戦争の開戦から8日で79年を迎えた。生きて虜囚の辱めを受けず――。戦陣訓が徹底され、降伏が許されなかった時代、「集団自決」や玉砕がおびただしい犠牲をもたらした。ただ、ごくわずかながら、軍や上官の命令に背いて死を拒んだ人たちもいた。「死にたくない」。そう声を上げたのは、どんな人たちだったのか。(清水大輔)

 1945年4月、沖縄県の八重岳。県立第三高等女学校(名護市)の4年だった上原米子さん(94)は、迫り来る米軍から逃れていた。右足に迫撃砲の破片が刺さった。「もう助からない。死のう」。近くにいた衛生班長が手榴弾(しゅりゅうだん)を取り出して言った。上原さんは何も言えなかった。

 その時、同級生の一人が班長から手榴弾を取り上げて叫んだ。「そんなに死にたかったら一人で死んで下さい。私は死にたくない」。彼女は「富子さん」という名だった。

 上原さんが女学校に入学したのは太平洋戦争が始まる1941年の春。制服はセーラー服から国民服に変わり、英語の授業はなくなった。124代の天皇の名前や教育勅語も暗記させられるようになった。3、4年生には看護教育が始まり、上原さんは野戦病院への派遣に志願。軍国教育をたたき込まれ、「従軍看護婦になって軍の役に立ちたい」と思うのは自然なことだった。

 だからこそ、上官の命令には絶対服従だった。あの時、富子さんはなぜ抵抗できたのだろう。今でもそう考えることがある。一緒に沖縄戦を生き延びたが、富子さんの詳しい消息はわからない。覚えているのは、富子さんが「あっちの言葉もできた」ということだ。

 富子さんはアルゼンチンで生ま…

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