かつて、五輪に参加した後、戦地や空襲で命を落としたオリンピアンたちがいる。8日で太平洋戦争の開戦から79年。来夏に延期された五輪を前に、平和があってこその祭典だと遺族らは思いをかみしめる。(斉藤佑介、山本亮介)
《ヒットラーが我々の前を通られた。スタジアムの中の騒ぎと言ったらない》
1936年8月1日。17歳の青年が、ナチス・ドイツ下で開かれたベルリン五輪の開会式で目にした光景を日記にそう書いた。
筆者は当時慶応大1年生の児島泰彦さん。「水上軍」と呼ばれた競泳日本代表の最年少だった。「欧州旅行記」として、出発からベルリンでの歓迎ぶり、日本代表の活躍、地元・広島県坂町への思いなどを2冊にわたってつづった。
期待も大きかったが、道中のシベリア鉄道で病気にかかり、100メートル背泳ぎ決勝は6位に終わる。体重も落ち、フォームも崩れていた。
《小生としては唯(ただ)運を天にまかせてかかることにした》《涙が出そうであったが何も仕方がない》《本当に小生を期待せる人々に対してすまない感がした》(同年8月14日)
拡大する東京五輪が開かれるはずだった1940年に児島泰彦さんが英文で書き残した日記。「オリンピック」の文字はないが、日々の練習の記録を書き、泳力に磨きをかけていたことが分かる=2020年11月28日、静岡県藤枝市、斉藤佑介撮影
4年後の東京五輪で活躍を期待されたが、日中戦争の泥沼化で大会は返上。幻の五輪イヤーとなった40年1月1日から12月30日まで、児島さんは毎日欠かさず英語で日記をつけた。読書家で夏目漱石をよく読んだ。練習のラップタイムも記し、日本選手権で新記録を出した。練習の合間に銀座へ通い、軍事教練を「歯が痛い」とサボってあんみつを食べる学生らしい姿も書き残している。
日記や数々の遺品を保管する、…
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