[PR]

 原爆投下直後の広島で旧陸軍の調査班が収集した原爆死没者の遺骨が、75年の歳月を経て8日、遺族に返還された。原爆投下の2日後に広島入りした旧理化学研究所(理研)の仁科芳雄博士(1890~1951)の関連資料から見つかり、11月に引き渡しを受けた広島市が遺族を捜していた。

 遺骨の身元は、広島県吉和村(現・廿日市(はつかいち)市)出身の道原菊間さん(当時18)。広島市内に拠点を置く中国軍管区歩兵第一補充隊(中国第104部隊)に配属されていた。

 市は、引き受けた遺骨と一緒に残されていたメモ書きから、「道原 菊馬」(備考欄には「道原 菊男」と記載)という人物の遺骨とみて情報提供を呼びかけていた。その後、廿日市市に住む妹の岩田キヨ子さん(83)から兄ではないかと連絡があった。1945年8月31日に、港のある宇品の病院で亡くなったという。広島市は、家族が保管していた戸籍謄本や原爆死没者名簿、「広島県史」(72年発行)に転載された陸軍省が遺骨を収集し放射能測定をしたとする調査報告書を調べた。それらの記述から、名前の一字が異なるものの、道原菊間さんの遺骨として矛盾がないと結論づけた。

 岩田さんは8日、長女とともに広島市の平和記念公園内にある原爆供養塔の前で、市職員から遺骨を受け取った。79年前のこの日、太平洋戦争が始まった。「小学1年生の時、障子紙で作った日の丸の小旗で兄を見送ったのが最後でした。唯一の女きょうだいの私をかわいがってくれたやさしい兄。75年間、寂しく苦しかったでしょう。お疲れさまでした」。岩田さんはこう言って骨箱をさすり、声を詰まらせた。遺骨は家族の墓に納めるという。

 市によると、原爆死没者の遺骨が遺族に返還されるのは2017年以来で、10年以降では3件目。

 道原さんの遺骨は昨年、東京都内の旧理研の建物が老朽化で解体されるのに伴い、職員が仁科氏の執務室を整理していて見つけた。「原爆被災者のお骨(広島にて採取)」と記された箱に入っていたという。骨片7点と骨粉21点に添えられたメモ書きには、他に3人の名前があった。うち1人は「キの内 藤四郎」と書かれていた。市はこの遺骨についても、引き続き情報提供を呼びかけている。

 仁科氏は、旧陸軍の依頼で日本の原爆開発に携わったことで知られる。市などによると45年8月8日、仁科氏らは大本営が派遣した調査団として広島に入り、投下されたのが原子爆弾であると断定した。その後、理研の研究者らが参加した別の調査団が同月14日から死没者の骨などを収集し、放射能測定などに用いた。

 原爆供養塔には今も、引き取り手のない約7万柱の遺骨が納められている。市は毎年、名前がわかっているのに遺族が判明していない815人について、名簿を全国の自治体や被爆者団体などに発送して情報提供を呼びかけている。問い合わせは市調査課(082・504・2191)へ。(比嘉展玖)