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 大阪府田尻町で「マリ美容室」を1人で切り盛りする吉田(旧姓・本間)栄子(はえこ)さん(86)は10歳のとき、大阪大空襲で両親ときょうだいを亡くし、孤児になった。ずっと捜し続けてきた家族の遺骨。戦後75年たった今年、ようやくその「居場所」を見つけた。

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 栄子さんの父弥一郎さんは、現在の大阪市浪速区で軍艦などを磨く布バフをつくる町工場を営んでいた。戦時中は両親と4人のきょうだい、叔父一家を合わせた11人で暮らしていた。

 1945(昭和20)年3月13~14日の第1次大阪大空襲の時、国民学校4年だった栄子さんは家族でただ1人、淡輪(たんのわ)村(現・岬町)の親戚宅に疎開していた。

 昼ごろから、顔が真っ黒にすすけた人たちが次々と村にやってきた。大阪市内から電車で逃れてきた避難者たちだった。「ただごとではない」と感じた。

 親戚は「そのうちお父ちゃんも来はる」と言ったが、いっこうに来ない。3日後、大阪へ向かった。

 電車は天下茶屋駅(現・大阪市西成区)付近で止まり、その先は高架橋の上を歩いた。まちは焼け野原で、ところどころに蔵だけが残っていた。たどり着いた自宅も焼け落ちていた。

 今も「心を縛る」という光景を見た。近所の人から「避難場所」と聞いて訪ねた地元の国民学校だった。

 体育館の2階に上がると、両手を天に突き上げたり、縮こまらせたりした無数の黒い塊が床に並べられていた。空襲の炎に焼かれた人々の遺体だった。

 別の国民学校の運動場で姉、初子さん(当時20)の遺体だけはわかった。

 母が編んだおそろいの靴下を履き、トタンをかぶせられていた。「お姉ちゃんに間違いない」と周囲の大人に訴えたが、遺体を引き取らせてもらえなかった。

 両親と2人の姉、6歳の弟、同居していた叔父一家ら9人は全員亡くなったと聞かされた。

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 「この子、大人になるまで苦労するよ」。自宅跡に集まっていた親戚のつぶやきを繰り返し思い出すようになったのは戦後だ。

 空襲の夜、勤務先に呼び出されて一命をとりとめた長兄は養子に入って疎遠になり、栄子さんは親戚宅を転々とした。「どこに行っても、気に入られなければと顔色を見ていた」

 引き取られた5カ所目は母の弟宅で、4人目の子どもが生まれたばかり。育児に追われた。高校進学はあきらめ、その後、美容師の家に住み込んで働いた。

 家族の遺骨の行方が気になり始めたのは、結婚し、2人の子を産んでからだ。

 命日と春秋のお彼岸は先祖代々の墓に手を合わせてきたものの、そこに家族の骨はない。大阪大空襲の資料を集める大阪国際平和センター(ピースおおさか)に問い合わせたが、答えは「わかりません」だった。

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 「服部霊園を訪ねてみませんか」。この夏取材された報道関係者から提案された。三島由紀夫の小説「愛の渇(かわ)き」に登場する豊中市の服部霊園には、大阪大空襲で亡くなり、引き取り手が見つからなかった遺骨を納めた大阪市戦災犠牲者慰霊塔がある。

 9月の慰霊祭に合わせて初めて訪ねた。管理事務所にあった納骨者名簿で両親ら9人の名前を見つけた。

 大阪市によると、慰霊塔は1958年に建立された。空襲後、あちこちに仮埋葬された遺骨を掘り出して火葬し、納めたという。「ほっとしました。でも、もっと早く見つけてあげたかった」と栄子さん。

 来年3月13日で大空襲から76年になる。当日は息子らと慰霊碑を訪ねたい。栄子さんはそう考えている。(武田肇)

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