忘れられゆく捕虜収容所 市民団体「タブー視しないで」

戦後75年特集

寺田実穂子
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 太平洋戦争中、捕虜になった連合国軍兵士らの収容所が愛媛県新居浜市にあった。捕虜は主に別子銅山関連の作業に従事させられたというが、地元でもあまり知られていない。収容所で何があったのか。戦争捕虜(Prisoner of war)の調査を続ける市民団体「POW研究会」の江沢誠さん(71)=東京都=が現地を訪れた。

 POW研究会は2002年から戦争捕虜の調査を続けている。国会図書館に足を運んで連合国軍総司令部(GHQ)の資料を調査。元捕虜の回顧録を収集するほか、実際に海外に訪ねたり収容所関係者にインタビューしたりして収容所の実態を調べてきた。

 研究会によると、新居浜市内には二つの収容所があった。1943年4月に「磯浦収容所」、44年5月に「山根収容所」が開設。山根は終戦直前に閉所し、捕虜は磯浦に移された。ただ、資料がほとんど残っておらず、江沢さんは現地調査のため新居浜を訪れた。

 新居浜市役所から南へ約4キロ。山のふもと近くの西連寺町の住宅地に、山根収容所があったとされる。

 「収容所があったという話は昔、古い資料で見た覚えがあるが、詳しいことは分からない」。町内に住む高橋秀樹さん(63)は話す。

 高橋さんが案内してくれたのは、住宅地から約600メートルほど山側へ寄った場所。「山根駅跡」と書かれた看板が立ち、当時の駅舎の写真が載っている。かつて市内を走っていた鉱山鉄道「下部鉄道」の跡だ。

 鉄道は山中を通り、銅山の入り口まで続いていた。終着駅は「端出場(はでば)駅」。駅の跡はないが、現在の観光施設「マイントピア別子」のあたりで、少し上がると「第四通洞」がある。江沢さんによると、捕虜たちは山根駅から鉄道に乗り、端出場駅近くの第四通洞から銅山内部に入り、作業に従事させられたという。

 高橋さんは「新居浜に捕虜がいたことは、知らないままだった。自分の住んでいる地域のことなので、知っておきたい」と話した。

 もう一つの磯浦収容所は海沿いの磯浦町にあった。

「あのへんだと思う」。別子銅山でかつて働いた山川静雄さん(90)が、海と反対側の谷の方を指さした。

 近くには下部鉄道の「星越駅」があり、隣接する選鉱場では、山から運ばれてきた鉱石を砕いて不要物を取り除く作業がなされていたという。江沢さんによると、磯浦の捕虜はここなどで働かされたとみられる。

 山川さんは戦時中、通学時に、作業に向かう捕虜たちとすれ違ったことがあるという。管理人のような人に連れられ、集団で移動していた。外国人を見るのは珍しかったが、戦争のことを聞いたりしゃべったりすることはできなかった。

 「戦争は人々に余計なことを考えさせず、ただ前に突き進むような雰囲気にさせる。二度とあってはならない」と山川さんは言う。

 POW研究会の調査では、終戦時、磯浦収容所の捕虜は644人(オランダ401人、オーストラリア242人、アルメニア1人)。日本軍が東南アジアを侵略した際、ジャワ島などで捕虜にしたという。収容中の死者は45人。戦後、収容所の関係者13人が、捕虜の扱い方などを理由にBC級戦犯に問われた。

 こうした収容所は全国に約130カ所あり、研究会は各収容所を調べ、事典にまとめる予定だ。江沢さんは「戦争には、被害と加害の両面がある。捕虜の問題も、タブー視せず向き合うべきだ」と話す。(寺田実穂子)

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