新潟県千谷沢村(現長岡市小国町)出身の落語家の林家こん平さんが17日、亡くなった。おかげで日本一のコシヒカリに――。地元の同級生らはその死を悼んだ。

 こん平さんはテレビ番組「笑点」や落語の枕で「新潟県チャーザー村出身」をことあるごとにアピールした。小中学校で同級生だった山崎豊士さん(78)は「千谷沢村(現・長岡市小国町千谷沢)をここらの方言でそう言うんです。彼の宣伝のお陰でここらのコシヒカリは有名になり、よく売れました」と語る。

 中学時代は卓球部主将で印象は真面目な男。「落語に興味があると知ったのは学芸会のとき。マッチ箱を立てて『函館』と言って笑いを取っていた」と話す。

 こん平さんは中学卒業後に林家三平(初代)に入門。山崎さんは国鉄に入社し、東京勤務のとき、何度か寄席の楽屋に入れてもらったという。「『米を1俵担いでいったら入門させてくれた』は彼のネタ。三平は当時人気絶頂で、実際は入門を断られては何度も頼み込んだと話してた」。会う度に出世し、「笑点」にも出演。「古典落語を学ぶだけでなく、新作も百ぐらい作ったと言ってた。やっぱり真面目なんだよね」

 最後に会ったのは2016年。地元の小国中学校の創立50周年記念式典。「話が聞けると思ったんだけどね」。当時、こん平さんは難病「多発性硬化症」を患っており、発したのはおなじみの「チャラーン」のかけ声だけだった。「亡くなったのは残念。だけど、あれからさらに4年も闘病した。よく頑張ったと思う」

 南魚沼市の中沢俊一さん(70)は30年ほど前、魚沼コシヒカリのPRに協力してもらうため、長岡市での落語会を終えて帰京する新幹線に同乗し直談判すると、デッキに出て話を聞いてくれた。中沢さんが浦佐駅で降りるときに日本酒を渡すと、満面の笑みだった。

 その後、1988年に六日町(現南魚沼市)の魚沼コシヒカリをつくる若手農家が結成した「コシヒカリ共和国」の名誉国民第1号として、テレビなどを通じてPRしてくれた。「笑点」で、コシヒカリ共和国を紹介したこともあったという。「(こん平さんの)おかげで日本一の魚沼コシヒカリになった。我々の運動に協力し、理解してくれた」と感謝する。(伊丹和弘、杉山歩)