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 ふるさとと家族を原爆に奪われながら、その後の長い人生を生き抜いた一人の男性が、この世を去った。91歳で亡くなった高橋久さん。72年がかりで手に入れた父の遺骨と、大事に守った家族の写真と、語り継いだ街の記憶と。彼が残したものから、「継承」について考える。(宮崎園子)

 広島市中心部から南東に約40キロ、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島。広島市西区の大木久美子さん(61)は今月13日、10月末に91歳で亡くなった父・高橋久さんの遺骨を、ここにある先祖代々の墓に納めた。

 3年前の冬も、ここにいた。当時は、久さんの父で、久美子さんの祖父にあたる高橋脩(おさむ)さんの遺骨を携えて。

 1945年8月6日、43歳の若さで原爆の犠牲になった脩さん。その遺骨は、2017年秋になってようやく、家族のもとに帰った。72年もの間、納められていた平和記念公園内の原爆供養塔で、久美子さんも返還に立ち会った。父の遺骨を抱いた久さんは、すでに認知症が進んでいた。

 原爆で久さんは、父脩さん、母よし子さん(当時39)、弟力(つとむ)さん(当時13)の家族全員をいっぺんに失い、たった一人残された。

 原爆投下後の8月下旬、久さんが江田島の海軍兵学校から戻ると、脩さんが経営していた「高橋写真館」はなくなっていた。焼け跡には、よし子さんのものと思われる金歯があり、付近の骨をよし子さんの遺骨として持ち帰った。

 大崎下島の高橋家の墓には、久さんの妻・規子さん(11年に77歳で死去)の遺骨も入っている。「今ごろきっと、父は原爆で別れた家族と墓の中で再会を果たし、母を紹介しているんじゃないかな」。久美子さんは言う。

 久さんの実家「高橋写真館」があったのは、広島市中島本町。今はない町名だが、現在の平和公園の北端部分にかつて存在した。旅館や商店などが立ち並び、広島屈指の繁華街だった。

 原爆で消えた街。晩年の久さんは、少年時代の記憶をたどり、かつての街並みや人々の暮らしを熱心に証言した。

 映画館の壁の穴から中をのぞいたこと。料亭に芸者さんが人力車で乗りつけ、酒を飲んで野球拳をしているのが丸見えだったこと。豆腐屋が「トーフィー、トーフィー」と言いながら売りに来たこと。

 それらをかじりついて聞いたのが、大ヒットを記録したアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督(60)だった。映画の冒頭、主人公すずがにぎやかな広島の街をいくシーンは、久さんら元住民の証言を頼りに綿密に再現した。「高橋さんが教えて下さることで、僕もその街に所属したような気持ちになった」と片渕さんは振り返る。

 久さんと片渕さんを引き合わせ…

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