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 中国は変わりかけていた――。1989年春、天安門広場を埋め尽くした若者らを目の当たりにして、ある日本の外交官はそう信じた。だが、彼らに突然銃口が向けられた。銃弾が飛び交い権力闘争が繰り広げられる北京で、この外交官は情報収集に奔走した。外務省が23日に公開した外交文書と証言から当時に迫る。

 極秘文書に報告者「サトウ」と名が出てくる、元タイ大使の佐藤重和さん(71)。天安門事件が起きた時、北京の日本大使館で1等書記官だった。

拡大する写真・図版1989年6月4日午前5時ごろ、北京の天安門広場を制圧後も、周辺に残る学生・市民に向け発砲を続ける戒厳軍。後方の建物は人民大会堂

 6月4日、軍が広場上空に放った銃弾がデモ隊へ放物線を描いた。「最前列が危ないかと思っていたら、少し離れたところで人が倒れた」。大使館から人が来て連れ戻されるまで、現場の様子を必死に目に焼き付けた。

 北京で民主化を求めるデモが始まったのは事件の2カ月前。日本大使館は広場を見下ろすホテルの一室を借り動向を視察した。佐藤さんは当時40歳手前。当局に警戒されないよう中国人の学生のような格好をして広場に出入りした。

 共産党指導部が運動を「動乱」と断じて5月20日に戒厳令を敷いた後も、広場にはのどかな風景があった。中央の統制が乱れる中、広場を目指して地方から人が集った。夜店も出てお祭りのようだった。「緊張感はなかった。最後にああいう形で衝突するなんて誰も思っていなかった」

 中島敏次郎大使をお忍びで前線の学生のリーダーに引き合わせたこともある。外務省の主流派で欧米と渡り合ってきた中島大使について、佐藤さんは「中国の若者が民主化へ動き始めたことに非常に関心を持っていた」と話す。

 それは中島大使が外相にあてた5月31日付の分析ペーパーにも出ている。「今回の百万人デモで現れてきた民主化の流れは今後の中国の将来への流れと見ることもできるわけであり、そうした人々の考え方や受け止め方にはわが国としても十分注意を払っていくべきであろう」

 デモには政府系シンクタンクの研究者も多く参加していた。6月1日に佐藤さんが接触した若手研究員とのやり取りは、情報の機微などを理由に情報源を特に慎重に扱う「内話(ないわ)」として記録が残る。

■戒厳令で無政府状態に 混乱の…

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