第1回右目ない顔「見苦しい」と就活で差別 報われぬ戦争の傷

有料記事戦後75年特集

山本知佳
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 戦時中の空襲沖縄戦で多くの民間人が命を落とし、傷を負いました。身体障がいや精神の疾患が残った人、肉親を失った人も少なくありませんが、国は75年たった今も法的な救済をしていません。怒り、悲しみ、失望――。当事者の思いを4回にわたって報告します。

岐阜の空襲で右目を失った柘殖忍さん(91)

 自分の顔を見た面接担当者たちは、一目で視線をそらした。

 もう60年以上前のことだ。それでも、あのときの視線は、いまも忘れられない。

 岐阜県大垣市の柘植忍さん(91)は16歳のとき、全身にやけどを負い、右目を失った。だからこそ、むしろ勉強に励んだ。大学院まで進み、先生や同級生たちにいやな思いをさせられた記憶はない。

 就職活動だけが違っていた。けががあるから、だめなのか――。

 戦争が原因だった。

 1945年7月29日未明、大垣の市街地を米軍機が襲った。

 大雨のような音がして、近くにあったふとんをかぶった。とたんに体に衝撃が走り、体が燃え上がった。必死に川に飛び込んだ。

 気づいたときには、救護所のベッドに寝かされていた。胴体以外、すべて包帯が巻かれていた。ふとんごと焼夷(しょう・い)弾の直撃を受け、左腕は複雑骨折。鏡をみて息をのんだ。

 やけどで、顔がまだら模様になっていた。油脂が右目に入った。摘出するしかなかった。

 「学校に行きたくない」

 ともに教師だった両親に、そんな弱音を吐くとしかられた。治療や支援をしてくれた人の存在を説かれ、弱音はやめると心に決めた。

 1年の休学ののち、学校に再び通い始めた。中学、高校と、同級生はやけどやけがのことは何もなかったかのように接してくれた。名古屋大学の法学部に入り、修士課程まで進んだ。大学でも、たとえば体育の教師は、「やれることはやった方がいい」と言って、みんなと同じように授業を受けさせてくれた。

 しかし、就職活動はそうはいかなかった。岐阜県の教員採用試験のほかに、地方銀行など民間企業も受けた。どれも、筆記は通るのに面接で落とされた。

 面接で直接、顔のことを言わ…

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