拡大する写真・図版大阪大空襲の前に吉田栄子さん(手前中央)が両親やきょうだいと撮った写真。両親の写真はこれが唯一だという=吉田さん提供

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 戦時中の空襲や沖縄戦で多くの民間人が命を落とし、傷を負いました。身体障がいや精神の疾患が残った人、肉親を失った人も少なくありませんが、国は75年たった今も法的な救済をしていません。怒り、悲しみ、失望――。当事者の思いを4回にわたって報告します。

家族亡くし、孤児になった吉田栄子さん(86)

 大阪市中心部から車で約40分。大阪府豊中市の丘陵に広がる服部霊園には、大阪大空襲で死亡し、引き取り手のない「無縁仏」の遺骨2870体を合葬した高さ約8メートルの「大阪市戦災犠牲者慰霊塔」が立つ。

 今年9月、吉田栄子(はえこ)さん(86)=大阪府田尻町=はここで、10歳の時に生き別れとなった両親、2人の姉、弟、同居していた叔父一家ら9人と「再会」した。

 1945年3月13~14日、大阪市中心部の約13万6千戸が焼失し、約4千人の命が奪われた第1次大阪大空襲。国民学校4年生だった吉田さんは、自宅のある大阪市浪速区を離れ、和歌山との府県境にある岬町の親戚宅に、ひとり疎開していた。

 3日後、自宅に戻った。焼け野原だった。

拡大する写真・図版唯一手元に残る家族写真を手にする吉田栄子さん=2020年11月19日、大阪府田尻町、武田肇撮影

 家族ら9人のうち、遺体を確認できたのは、学校の運動場でトタンをかぶせて寝かされていた姉初子さん(当時20)だけだった。母が手編みした靴下をはき、見覚えのあるオーバーコートを着ていた。

 「お姉ちゃんに間違いない」

 周りの大人に訴えたが、遺体は引き取らせてもらえなかった。

 孤児になった吉田さんは、戦後の食糧難の中で、親戚宅を転々とすることになった。

 どこに行っても、自分では気に…

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