【動画】1964年東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん=加藤秀彬撮影
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 「日本初の車いす公務員」と称された近藤秀夫さん(85)=高知県安芸市=は、1964(昭和39)年のあの日、間近で見たあのキスが今も忘れられない。その年、東京五輪が行われ、近藤さんは日本初開催となったパラリンピックに車いすバスケットボールなどの選手として参加した。五輪が高度経済成長を後押しする一方で、このパラ大会は何をもたらしたのか。近藤さんが「障害者福祉の向上」をめざす原点となった大会の衝撃を振り返る。

 こんどう・ひでお 1935年、岡山県真庭市生まれ。64年の東京パラリンピックで、車いすバスケットボール、アーチェリー、陸上競技などに出場した。大会後、車いすバスケのチームや精密機器会社などを経て、74年、東京都町田市の職員となり、ケースワーカーを担当した。定年後の2007年に高知県安芸市に移住。11年にNPO法人障害者自立生活センター「土佐の太平洋高気圧」を設立し、現在、副理事長。

拡大する写真・図版車いすで入場した日本選手団=1964年の東京パラリンピック開会式

 ――パラリンピックの起源は、第2次世界大戦でけがをした兵士がリハビリをするための大会だ。48年、英・ロンドン郊外の病院で初開催された。「パラプレジア(下半身まひ)」と「オリンピック」をつなぎあわせた造語で、60年のローマ大会が後に第1回大会と認定された。当初は脊髄(せきずい)損傷の車いす利用者だけが参加対象だった。

 今のパラリンピック選手は僕たちの頃とは全く違います。今の選手は立派なアスリートでしょう。2016年のリオデジャネイロ大会の閉会式で披露された「東京2020」のPRには驚きました。義足の選手らがモデルやダンスのパフォーマンスをし、「ショー」のように芸術的なものとして扱われているように僕は感じました。僕の時代の障害者は人目をはばかる隠された存在だったのに、ここまで来たかと。

 ――1964年の東京パラ大会を振り返る報告書は、日本が選手集めに苦労した当時の様子を伝えている。厚生省(当時)は開幕の4カ月ほど前になり、国立病院や国立療養所などの施設に「入所者の競技参加に進んで協力されたい」と要請を出していた。

 僕もその一人で、29歳でした。僕は16歳の時に仕事中の事故で脊髄損傷を負い、車いす生活をしていました。この大会で、日本の出場選手は53人。ほとんどが僕と同じような障害者施設の人たちでした。

 声をかけてくれたのは、この大会で選手団長を務め、「日本パラリンピックの父」と言われた医師の中村裕先生(1927~84年)。大会の2年前、僕が入所していた大分県別府市の国立別府重度障害者センターを訪ねてきました。僕が和弓をやっている姿を先生が見て「あいつはスポーツが好きそうだから出そうか」となりました。

 当時は障害者がスポーツをするということ自体が考えられないので、選手の選考会なんて当然ありません。同じ弓のスポーツだから、アーチェリーもできると先生は考えたようです。

 大会に向けて大分県別府市の障害者施設から東京へと出発します。移動する服装には「NIPPON」と記されたスポーツ着が支給されました。お粗末なもので、簡単な帽子とジャージー、Tシャツだったと記憶しています。11月8日の織田フィールド(東京・代々木)での開会式にもその服装で参加しました。

拡大する写真・図版1964年11月、大分県から東京パラリンピックに向けて出発する近藤秀夫さん(右から2人目)(本人提供)

 ――参加を当初予定していたのは車いすバスケとアーチェリーの二つ。近藤は最終的には6種目に出場した。公式記録には上位者の競技結果しか記されておらず、近藤は結果を覚えていない。

 日本選手には大会にエントリーしていても、当日急に体調が悪くなって出られない障害者が何人もいました。頭数を合わせるために施設から障害者を選んで参加を申し込んでいる時代でしたから。僕は代わりの選手として、陸上競技のスラロームやこん棒投げにも出ました。

 でも、競技をするにも外国選手とは車いすの質が全く違うんです。中村先生は外国製に比べて性能がよくないことに劣等感を持っていたから、国から補助金をもらって外国と同じ車いすを10台買ってきました。だけどそれは無謀で、僕たちには大きすぎて座席の片方だけでかなりスペースが空いています。体が揺れるどころか倒れちゃうので、詰め物をして走りました。

 「これでは競技ができません」と言うと、「できるだけでいいから」と頼まれるので、やるしかありません。

ルールも知らなかった

 ――近藤が最も力の差を感じたのが車いすバスケの試合だった。

 最も記憶に残っている競技の一つが車いすバスケ。今のようにクラブチームなんてありませんから、代表選手と言っても障害者施設でチームを組むだけでした。

 選手団長の中村先生には「おまえたち、別府で1チーム作ってくれ」と言われました。本当は1カ国で1チームしか出られないのですが、中村先生が頼んで2チーム出られるようになったと聞きました。僕たち別府と、関東労災病院(川崎市)でした。

 中村先生は大会前、施設に練習用の新しいバスケットボールを一つ置いていきました。僕たちはルールを知らないので先生に聞くと、まだ日本語に訳されたルールがないというのです。結局、僕たちがルールを知ったのは東京に行く1週間前でした。練習は集会所の半面に中村先生が付けてくれたゴールでシュートとパスをしたぐらいです。

 初めて試合をしたのは、選手村に入ってからでした。「別府だよな、本番前に試合をしよう」と関東労災病院の選手から頼まれました。事情を聴くと、向こうも本番をやったことがないと。ルールは僕たちより前に手に入れていたけど、人数がいなくて試合ができていなかったようです。

拡大する写真・図版1964年の東京パラリンピックで、海外選手と手を合わせる近藤秀夫さん(中央)(本人提供)

「外国人選手は、それまで障害者施設にこもっていた僕たち日本人とは、明らかに異なっていました」と語る近藤さん。記事後半では選手村で受けた衝撃について詳しく話しています。

 ――近藤は試合数やスコアの記憶はおぼろげだが、全敗だったことは覚えている。特に、米国との試合は屈辱的な敗戦だった。

 米国との試合はお話になりませ…

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