【動画】1964年東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん=加藤秀彬撮影
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 1964(昭和39)年の東京パラリンピックは、車いすバスケットボールなどの選手として出場した近藤秀夫さん(85)=高知県安芸市=にとって驚きの連続だった。だが、初の自国開催となった大会で思うような成績が残せなかった日本。なぜなのか。近藤さんは大会後、その原因について障害を持つある米国人経営者から指摘される。

 こんどう・ひでお 1935年、岡山県真庭市生まれ。64年の東京パラリンピックで、車いすバスケットボール、アーチェリー、陸上競技などに出場した。大会後、車いすバスケのチームや精密機器会社などを経て、74年、東京都町田市の職員となり、ケースワーカーを担当した。定年後の2007年に高知県安芸市に移住。11年にNPO法人障害者自立生活センター「土佐の太平洋高気圧」を設立し、現在、副理事長。

拡大する写真・図版脊髄(せきずい)を損傷し、車いす生活になった近藤秀夫さん(福岡県田川市、本人提供)

 ――近藤の生い立ちは凄絶(せいぜつ)だった。

 僕は35年に岡山県真庭市で生まれました。太平洋戦争が終わった45年は10歳。戦争は僕の家族に大きな影響を与えました。実母とは2歳のころに別れ、父と2人の兄と妹、育ての母が家族でした。

小学生の自分が働くしかなかった

拡大する写真・図版近藤秀夫さんが住んでいた福岡県田川市の炭鉱住宅(本人提供)

 父は左官や大工、電気工として働いていました。腕が良く神戸や鹿児島など全国各地から声がかかっていました。技術系の学校を卒業していたので、ラジオは買わずに部品から組み立てる腕前です。終戦後間もなく父の仕事の関係で鹿児島に移り、その後、父は炭鉱で仕事を得て一家で福岡県田川市に引っ越しました。

 ――過酷な労働環境だった炭鉱で、父親を失った。

 父は高い技術を持っていたから、石炭を掘る現場の最前線に回されました。すると、結核にかかり亡くなりました。父が亡くなったので、炭鉱の住宅を空けなくてはいけません。父が亡くなったのは僕が12歳の時です。僕たち兄妹は両親から厳しく育てられていましたが、父が亡くなった途端に男3人が悪さばかりするようになりました。我慢できなくなった母親は、妹を連れて鹿児島の実家に帰りました。僕は兄貴たちと田川市に残りました。

 これがその後、とんでもない目にあう始まりでした。長兄が金を持ってどこかへ行ってしまった上、次兄は知的障害者でした。僕が働かないといけません。僕の教育は小学校で止まりました。その後の人生で学校には行っていません。職業安定所に行ったけど、子供が行っても仕事はほとんどありませんでした。本を万引きし、パトカーで警察署に連れて行かれてさんざん怒られました。とにかく生きるのに必死だった。炭鉱の住宅を追い出されたので、冬の寒い夜の寝床は、炭鉱内の風呂を沸かすボイラーの上です。

 ――石炭を運ぶ運送の助手が近藤の仕事になった。たまたま通りかかった場所でトロッコのレールを持ち上げる仕事を手伝っていた時、事故は起きた。

労働中の事故で脊髄損傷の大けがを負った近藤さん。1週間後に目が覚めたとき、思ったこととは。記事後半では、米国系企業に雇われて車いすバスケ選手となり、その後、突然退社するまでのエピソードを語ります。

 レールの後方を先に上げて馬車…

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