編集委員・中島隆
わたくし57歳。かぜ薬、胃薬、心の病の薬……。いろいろ飲んできました。
病院やクリニックに行くのは、ほとんどの場合、平日です。お医者さんの診察を数分うけます。窓口で会計をすませ、処方箋(せん)をもらいます。
大きな病院の場合、近くに、いくつも薬局があります。どこでもいいやと、気の向いた薬局に入って処方箋を出します。思うことは、ただひとつ。
〈処方箋に書いてあるんだから簡単でしょ? とにかく早く下さい〉
そんな話を知人たちにしていたら、怒られてしまいました。
「薬剤師の仕事を知らないくせに、適当なことを言うな!」
この連載は、心の声で薬剤師の誇りをズタズタにしていた初老記者の、悔い改めの記でもあります。
身近にある薬局。私たちの健康を守る薬剤師たちの物語、全5回でお届けします。
まずご紹介したい薬剤師は、この方です。
比留間栄子さん、97歳。
東京の豊島区と板橋区に店をかまえる「ヒルマ薬局」の2代目です。
敗戦の1年前、1944年に薬剤師になりました。2018年、95歳のときに世界最高齢の現役薬剤師だとギネス世界記録に認定されています。
板橋区の店に、孫で4代目の康二郎さん(40)と立ってきました。足をケガしてしまい、いまはリハビリ中です。
1923年関東大震災がおこったその年、栄子は生まれた。父は薬剤師で、豊島区の池袋で薬局を営んでいた。
二・二六事件は12歳のとき。高等女学校への入学準備をしていたときにおきた。
真珠湾攻撃は、18歳のとき。東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)の学生だった。
44年、2代目として、父の薬局で働き始める。戦局が悪くなっていく。45年3月、長野に疎開した。2日後、東の空が真っ赤になった。大空襲で東京が焼き払われたのだ。
8月15日、敗戦。
敗戦から1年ほどたち、池袋に戻った。住んでいた街は、焼き尽くされていた。父の薬局も、跡形もなかった。
親戚、知人、多くの死。栄子は思った。
〈わたしは生かされている。命あるかぎり薬剤師をする〉
まもなく、父と薬局を再開した。父や栄子は、近くにあった施設にときどき薬を持って行った。戦犯を収容した拘置所、「巣鴨プリズン」。戦犯の姿を目に焼き付けた。
こうして、栄子にとっての戦争が終わる。
◇
店に来た人に薬を出す。それが薬剤師の仕事である。けれど、栄子が心がけたのは、店に来た患者さんの話を、ていねいに聞くことだった。人生の悩みにも、耳を傾けた。
「少しでも気持ちが明るくなれば、病気なんか飛んでいってしまうんじゃないか、と考えたものですから」
軟膏(なんこう)をたくさん出…
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朝日新聞社会部