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 ブラジルから帰国した記者は昨年、朝日新聞社に入社し、縁あって静岡に赴任した。今度は地球の反対側で移民子弟の暮らしを取材しようと、日本最大のコミュニティーがある浜松を歩いてみた。

拡大する写真・図版新聞社の屋上から見たサンパウロの街並み=2018年12月、ブラジル・サンパウロ、戸田和敬撮影

 移民の暮らしに興味があった私はブラジルに渡り、邦字新聞社の記者として働いていた。

 南米最大の都市サンパウロの中心部から東に約2キロ。地下鉄に乗ると10分ほどで、東洋人街の玄関口「リベルダーデ」に着く。250万人以上と言われる日系社会の中心地で、かつては「日本人街」と呼ばれた。その日本人街の外れに、築50年を超える鉄筋コンクリート造り9階建てのサンパウロ新聞社屋がある。その4階の一室に住み込んだ。

 外に出ると、でこぼこの路地を黄色のユニホームを着た子どもたちが裸足のまま走り回り、生地が擦り切れたサッカーボールやヤシの実を蹴り合ってサッカーをしている。近くのバール(飲食店)では、平日の昼間にもかかわらず、カフェ(コーヒー)を飲みながら大人が大声で笑い合う。

 記者になって1年が過ぎ、ブラジルの風景に慣れたころだった。

 日本人移民110周年記念に沸いていた2018年の10月、新聞社から廃刊を告げられた。編集部にいた記者は全員、2カ月後に会社を解雇された。移民1世の高齢化で日本語読者は減少に歯止めがかからず、新聞社はもたなかった。

 解雇を受け入れざるを得ず、サンパウロから日本に帰国するまで、記者として勤務した間に集めた資料やブラジル国内で買ってきた土産物などの整理に追われた。

拡大する写真・図版勤めていたサンパウロ新聞社社屋。この4階に住み込みで働いた=2018年12月、ブラジル・サンパウロ

 暮らしていた部屋や社内には、廃刊までの73年間の新聞紙面を始め、アマゾン地域にある日本人移住地で譲り受けた記念誌や、60年以上前に新聞社が発行した人物評伝など、失われかけている日系社会の貴重な資料があった。

 中には、シロアリに食べられ、一部が読めなくなったものや、戦前の初期移民が日本から持ち込んだ崩し字で書かれた文献もある。新聞紙面はサンパウロにあるブラジル移民の資料館に寄贈することになった。ただ、取材で集めた貴重な資料は散逸する可能性もあり、可能な限りスーツケースに詰め込んだ。

拡大する写真・図版新聞社内には1946年の創刊から紙面を保管していた。70年以上が経過し、シロアリ被害などで劣化したものもある=2018年12月、ブラジル・サンパウロ、戸田和敬撮影

 移民1世は高齢化し、日本の22倍にもなる国土に点在する日本人移住地は、日本語での記録が何もないまま消えようとしている場所も多かった。

 記者として過ごした1年半の間、そのいくつかを訪ねて、入植当時から現代までの話を聞き、紙面に記録した。

 取材の中でよく聞いたのが、故郷に錦を飾るという意の「錦衣帰郷(きんいききょう)」という言葉だ。数少ない初期の移民が口をそろえて語ったのは、「数年で日本に帰るつもりだった」。多くの人が、ブラジルで成功し、財産を築いて故郷に戻ることを目的としていた。

 30年前、世代を超えて逆流現象が起きた。だがそれは「錦衣」の帰郷ではなかった。

 日系2、3世らが日本に「デカセギ」として帰ってきたのだ。そのきっかけを作ったのが、1990年の入管法改正だ。日系3世までが、滞在期間や就労に制限がない「定住者」として認められた。

 デカセギの日系人たちは、トヨタやホンダ、スズキなど自動車関連の工場が連なる東海地方に集まり、コミュニティーを作り上げていった。

 日本で暮らす日系人からよく聞かれるのは「日本に来た頃は2、3年で帰るつもりだった」という言葉だ。しかし、デカセギとして来日した後に家族ができ、子どもが生まれ、母国より安全で収入や物に恵まれた日本での生活を選ぶ人が増えた。定住化が進み、「日系ブラジル人」という言葉と共に「在日ブラジル人」とも呼ばれるようになった。

 今年に入り、日本国内の外国人は約286万6千人で、全体の2%を超えている。30年前とは様変わりした。

 浜松で育った日系3世の女性(30)は「子どものころは外国人が増えることを日本人が怖がっているみたいだった。今ではどんな環境にいっても、自分の他にも外国人がいる時代になった」と変化を感じている。

 30年たっても変わらないこともある。

 日系ブラジル人を含む外国人らの多くは、非正規社員として工場勤務に就いている。このため、在日ブラジル人のコミュニティーは、リーマン・ショック後に大量の雇い止めや派遣切りを経験した。

 景気の波によるしわよせを外国人が最初に受ける。日本社会の「雇用の調整弁」になっているという指摘が絶えない。89年に来日した日系2世の男性(57)は「景気が良いときは稼げるが、悪くなれば切られ、すぐに次の仕事を探さなければいけない。この構造は今でも変わっていない」と話す。

 静岡県内に暮らすブラジル人は浜松を中心に約3万人と言われる。ほとんどが日系人と見られるが、この30年間、日本社会とどのように向き合い、何を思って生きてきたのか。

 90年に来日した武蔵大学のアンジェロ・イシ教授(移民史研究)は「入管法改正で日系人がやってきたことが、日本の多文化共生社会の入り口になったと言える」。一方では、「地域で共生するための悩みや課題を生むスタートラインになった」とみている。

拡大する写真・図版ブラジル時代の戸田和敬記者

記事の後半では、日本とブラジル両国のアイデンティティーを持つ日系人たちの葛藤や「デカセギ」事情、食生活などを戸田記者が取材しました。

■両国のアイデンティティー、誇…

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