SNS社会が陥る「失語」 詩人たちが問う沈黙の意義

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山本悠理
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 大量の情報がインターネットなどを通じて瞬時に発信され、拡散される現代。言葉を発することと沈黙をたもつことは、対極にあるものと思われがちだ。だが、実は沈黙こそが言葉の母体なのではないか。自らの創作を通じ、そんな逆説を問うた2人の詩人がいた。彼らのまなざしをたどると、現代への警句が浮かんでくる。

 文学者で詩人の冨岡悦子・鶴見大教授は2014年、評論『パウル・ツェランと石原吉郎』(みすず書房)を発表した。両親をナチスの強制収容所で亡くし、自らも絶望の時間を過ごしたユダヤ人のパウル・ツェラン(1920~70)。シベリア抑留を経験し、8年に及ぶ飢えと酷寒の収容所生活を送った石原吉郎(1915~77)。冨岡さんは同時代を生きた2人の詩文や足跡から、両者の詩に通底する、言葉と沈黙とが密接に絡み合った世界を読み解いた。いま私たちが言葉と沈黙の関係を考え直すことには、どんな意味があるのか。冨岡さんに解説してもらおう。

 〈ことばがさいげんもなく拡散し、かき消されて行くまっただなかで、私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない〉

 「失語と沈黙のあいだ」と題した文章の中で、石原はそうつづった。単に言葉を発しない状態として同じように見える「失語」と「沈黙」は、石原の中で明確に区別されていたと、冨岡さんは話す。収容所の中で他人の生き死にに何も感じなくなるように、外の世界への関心を完全に喪失した状態が「失語」である。そして失語の状態から脱すべく、発語のために自己との対話、内省を重ねている段階こそが、石原の考える沈黙だったのだという。

 関心を失った他者に対してで…

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