古文書が語る明智光秀家臣団 左馬助と秀満は別人?

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編集委員・宮代栄一
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 天正10(1582)年の本能寺の変で主君織田信長を討ち取った明智光秀の家臣の一人、明智弥平次秀満(やへいじひでみつ)。山崎の戦いで光秀が羽柴(のちの豊臣)秀吉に敗れた後、馬に乗って琵琶湖を渡り、対岸まで逃れたとする「左馬助(さまのすけ)の湖水渡り」の伝説で知られ、これまでは左馬助は秀満の通称とみられてきた。だが、このほど詳しく調査された「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)には、二人は別人として書き分けられている。

 「乙夜之書物」は江戸時代前期、加賀藩(現在の石川県富山県の一部)の兵学者だった関屋政春(せきやまさはる)が古老らから聞き取ったエピソードなどを書き残した自筆本。史料の存在は一部で知られていたが、光秀に関わる部分については、このほど富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。

 光秀と家臣をめぐる記述は、本能寺の変から87年後の1669年に成立した上巻にある。

 光秀の旧臣で加賀藩士の進士…

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