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 【岩手】沿岸に通い、ときに暮らしながら、震災を描いてきた人たちがいます。そこで何を見て、何を思うのか。いまも被災地を見つめ続ける2人に聞きました。(聞き手・御船紗子)

絵本作家 指田和さん

 釜石市に通うようになったのは2011年5月。私は埼玉県鴻巣市の出身ですが、いとこが釜石に住んでいました。ボランティアとして行った先で出会ったのが、鵜住居小の子どもたちです。

 当時はニュースで「釜石の奇跡」が連日報道され、避難した児童生徒は特別な存在のように感じました。でも、目の前にいる子どもたちは普通にはしゃぎ回るし、震災で心を痛めてもいる。この子たちをもっと知りたいと思いました。

 取材は学校に手紙を送るところから。一時は、子どもの心を守るために取材はすべて断られました。最初に許可が下りたときも30分だけ。その後も通い続け、休み時間やスクールバスのなかで話を聞けるようになりました。

 あのころは、心の傷を広げないために先生も親も震災のことを聞きませんでした。でも私から見ると、子どもたちは「聞かれても困るけど、話して心を解放したい」というせめぎあいのなかにいるようだった。「防災無線を聞いて泣いちゃった」「夜はテレビの話をして励まし合ったよ」。そんな話を少しずつ教えてもらった。そうしてできたのが、絵本「はしれ、上へ! つなみてんでんこ」(ポプラ社)です。

 震災を題材にするのは、こうした例を少しでも参考にしてもらうことで、守れる命があると思うから。全国で災害が発生し、どこも「被災地」になり得るいまこそ、子どもたちから伝えていきたい。

 また、日々の取材で感じた土地の豊かさや面白さを伝えることも、私の役目なんだと思っています。

 「あしたがすき 釜石『こすもす公園』きぼうの壁画ものがたり」は、各地の公園に仮設住宅が建てられた震災後、子どもたちが思いっきり遊べるようにと用意された甲子町の公園と、そこに描かれた壁画について書きました。「ぼんやきゅう」(いずれもポプラ社)は、津波で多くが流された鵜住居町で、住民たちが毎年楽しみにしていた「盆野球」の優勝旗が無事だったことがわかり、7年ぶりに大会が復活したときの話です。

 釜石に行くたび、10日間ほど住み込んでアルバイトをしました。2年ほど続けるうちに、親戚のように迎えてもらえるようになりました。海の幸を分けあったり、ちょっとした話で笑いあったり。相手の暮らしを知ると、被災地は「つらい」だけの場所ではないとわかります。

 「3・11」を描くときはいつも夢中です。その土地へ行って、まず人としてできることをする。すると、その場で出会う人たちに魅せられる。一緒に泣いたり、笑ったりできるのです。

     ◇

 さしだ・かず 出版社で子ども向け雑誌などを担当した後、フリーに。広島の原爆や阪神・淡路大震災、東日本大震災を題材にした絵本の文を手がける。埼玉県鴻巣市在住。53歳。

映像作家 小森はるかさん

 東京で美大生をしていたときに震災がありました。テレビの向こうの原発や津波が地続きなんだと思うと、何かしたいと思った。友人に声をかけられボランティアに行く途中、レンタカーで北上しながら、各地の状況をブログで発信しました。

 大学で映像を学んでいて、そのときもカメラを持って行った。でも被災したまちを映す気にはならなかった。宮古市の避難所で会ったおばあさんに「自分は被災して足(移動手段)がないから、代わりに私の住んでいた所へ行ってきて」と頼まれた。そこでカメラを回し始めました。

 2012年からは住田町に移住し、陸前高田市のそば屋で働きました。それまでも毎月通ったけれど、ひと月たつだけでガレキが片づき、道ができて、まちは様変わりしてしまう。一定期間、住んでみようと思いました。そば屋のお客さんの話には、亡くなった人や流された店が当然のように出てくる。いまそこになくても、大切にしているものがあると感じました。

 新潟の水俣病を描いた「阿賀に生きる」(1992年)という映画があります。そのカメラマンと話したとき、「カメラは悲しみを背負えない」と教えてもらいました。私は当時、思うように作品づくりができず悩んでいた。その言葉を聞いて、自分は被災者を撮って、被災者の悲しみを一緒に抱えようとしていたんだと気がつきました。

 その映画が描いていたのは、水俣病をなかったことにしないようつなぎとめる人の姿。その姿が、私が陸前高田で取材していた住民の姿と重なりました。私が撮った映画「息の跡」で密着した種屋の男性や、「空に聞く」のラジオパーソナリティーの女性です。ふたりは地元の人だけど、外国語の手記やラジオという手段で震災の記憶を外へ発信していた。悲しみは背負えないけれど、その視点に寄り添うことはできると思いました。

 私が撮るのはドキュメンタリーですが、少し現実から離れたような、物語的な見え方になるよう工夫しています。一度も「陸前高田」という言葉は出てこない。テロップ、BGM、ナレーションは使いません。場面だけでストーリーを紡ぐから、見る人が自分と重ねる余白ができる。

 人はときに、どうしようもなく伝えなきゃいけないことに出会います。伝えたいという気持ちに突き動かされた過去の人たちのおかげで、いま、多くの伝承が残っている。あの日起きた、震災という紛れもない事実。余白を残すことで、誰もが経験したかもしれない出来事なのだと実感してほしい。

 誰かが困難にぶつかって、過去の事例を参考にしたいと思ったとき、私の撮った陸前高田を見てもらえればうれしいです。

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 こもり・はるか 震災翌年から3年間、住田町に住みながら沿岸を記録した。「空に聞く」「二重のまち/交代地のうたを編む」は県内でも公開予定。現在は仙台を拠点に活動。31歳。

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